WONDERBOY 田中達也が帝京高校から浦和レッズに加入したのは2001年でした。
2000年をJ2で戦った浦和が、苦しみながらもJ1に生還し、希望と不安が交錯する年でした。
達也は、福田、岡野、永井、トゥット、アドリアーノといった錚々たる選手達の中で揉まれました。
『ボールを持ったらドリブルで仕掛ける』
達也は持っていた唯一の武器で勝負を挑みました。
小柄な達也が、変幻自在なドリブルで相手DFを手玉にとり翻弄する姿は痛快でした。
加入した2001年開幕戦にベンチ入りすると、国立の第6節鹿島戦では初出場で初アシスト、
第8節のヴェルディ戦で早くもプロ初ゴールを決め、あっという間にレッズサポの心を掴みました。
1st.ステージの最終戦第15節の広島戦では、途中出場ながら2得点を挙げる大活躍でした。
… この時の広島には闘莉王になる前の “トゥーリオ” がプレーしていました。
高卒で初年度から出場機会を掴み、与えられたチャンスで結果を出すことで、
小さな達也の存在が、浦和レッズにとって次第に大きな存在になっていったと思います。
そして、達也にとっては、いつも近くでプレーをしていたエメの存在が大きかったと思います。
ボールの引き出し方、DFとの駆け引き、そのスピードの活かし方、そしてゴールを奪う気持ち。
それまではボールを持ったらドリブル一辺倒だった達也のプレーが変わりました。
『頭を上げ、常にシュートを意識する』
達也の武器は “ドリブルのためのドリブル” から “ゴールのためのドリブル” に代わりました。
そして攻撃だけでなく、前線で動きまわり、前線からの献身的な守備も達也の武器に加わりました。
エメは達也を、達也はエメを常に意識し、エメタツのコンビは浦和の大きな武器になりました。
2003年のナビスコカップではニューヒーロー賞とMVPをダブルで受賞する活躍。
決勝の鹿島戦では、達也の右足から勝負を決める3点目が生まれ、浦和初載冠の立役者になりました。
ドリブルで切れ込み、豪快に鹿島ゴールに叩き込んだシュートはいまもこの目に焼き付いています。
今季の最終節にサポーターが北ゴール裏いっぱいに描き出したシルエットは、
この試合で、ゴール後にコーナーポストに滑り込んだ時に魅せた達也を描いたものでした。
降りしきる雨の中で、国立競技場に足を運んだ多くのサポーターの記憶に残るシーンでした。
その後の浦和は、2004年に初のステージ制覇、2005年には天皇杯優勝、
2006年にはリーグと天皇杯の2冠に輝き、2007年にはACLを制しアジアの頂点に立ちました。
アジアチャンピオンとして臨んだCWCでも3位を獲得し、浦和の栄光にはいつも達也の姿がありました。
しかし、達也の浦和でのサッカー人生は順風満帆なものではなかったと思います。
2005年以降は、万全のコンディションでプレーをすることは少なく、常に怪我との戦いでした。
それでも常に全力でプレーをする達也を、多くのレッズサポーターは理解し、応援していました。
2005年10月15日、あの日がなければ田中達也はどんな選手になっていたでしょう。
達也は浦和レッズに加入したエメの背中をずっと見ていたと思います。
エメがカタールに電撃移籍し、残された達也にエースとしての自覚が芽生え始めた頃でした。
初めてフル代表に選出され、代表初ゴールも決め、W杯出場も現実味を帯びてきた2005年。
駒場で行われた柏戦において、相手DFの悪質なタックルで「右足関節脱臼骨折」という重症を負う、
その後の達也のサッカー人生に大きな影響を及ぼす悲劇が起きてしまいました、
一瞬にして悪魔に羽ばたく翼を奪われた哀しい出来事でした。
2006年に復帰を果たすものの、それ以降、毎シーズン故障を繰り返す達也の姿がありました。
あの怪我以降、達也のコンディションは戻ることはなく、怪我で離脱することが多くなりました。
怪我からの復活を目指し、大原でリハビリに励む達也の姿を見る日々が多くなりました。
エメと出会いドリブラーからストライカーに進化を遂げた達也。
達也のゴールはサポーターに向かって撃ち込むものが多かったように思います。
レッズサポの目の前でDFを翻弄し、ゴールネットを揺らす、何度もそんな場面を見てきました。
名古屋でナビスコ決勝進出を決めたゴールも、全州で決めたゴールもそんなゴールでした。
そんな達也のゴールの中で印象に残っているゴールが2つあります。
2003年のナビスコ決勝で決めたあのゴールと、そして2006年に等々力で決めたゴールです。
あっ、 2つともレッズサポが陣取るゴール裏とは逆のサイドで決めたゴールですね (^-^;;
2006年にあの大怪我から復帰して2戦目。アウェイ川崎戦で決めた復活ゴールです。
闘莉王のパスを受けドリブルで切れ込み、シュートコースを見逃さず左足を振り抜いたボールは、
一直線に伸びる低い弾道で、力強く川崎のゴールネットに突き刺さりました。
「シュートコースが空いたので撃つだけでした」
等々力の密集したゴール裏からはほとんど試合は見えませんでしたが、
達也が振り抜いた左足から放たれたこのシュートだけは、はっきりと見えました。
思い切りの良い達也らしいゴールに、試合中に涙が出たこと今でもはっきりと覚えています。
… このあと暢久が退場して大変な試合だったことも覚えています ((^-^;;;
ミシャ監督を迎えた今季は、開幕戦こそ先発出場を果たしましたが、
またしても怪我を繰り返し、試合に絡むことが少なくなってしまいました。
そしてやっと怪我が癒え復帰を果た時には、達也が輝く場所はなくなっていました。
今季の浦和レッズは達也を活かすことは出来ませんでした。
チームの躍進に自分の力を活かすことが出来ずに、大きな挫折感を味わったと思います。
途中出場した広島戦で、試合終了と同時にうなだれた達也の姿を見てその時がきたと感じました。
2012年11月19日、クラブから契約満了が発表されました。
どんな選手でも、いつかはチームを去るときがきます。
それはどんなに愛され、チームに貢献してくれた選手であっても例外ではありません。
そうなるかもしれないと感じていながら、達也がチームを離れることを拒絶していました。
頭では理解できても、実際に発表されると心に大きな傷みを感じました。
達也と共に戦えるのは今季いっぱい。最終期限が決められてしまいました。
鳥栖戦でも短い時間でしたが、全力でプレーをする達也の姿をずっと追っていました。
浦和での残された試合。達也は自分に出来る全てを、懸命のプレーを私に見せてくれました。
名古屋とのリーグ最終戦。この試合を最後に埼スタで達也の姿を見ることはありません。
どうしても勝ちたかった今季の浦和レッズの集大成の試合。浦和レッズは2−0で勝利しました。
勝利のための采配でした。それでも最後に達也のプレーをもう1度見たいと思っていました。
幸せな空気に包まれた埼玉スタジアムが泣いていました。
北ゴール裏いっぱいに浮かび上がったのは、ゴールを決めた達也のシルエットでした。
「達也と一緒に国立で笑顔でお別れがしたい」 心の底からそう思いました。
「一試合でも多く、浦和レッズの田中達也のプレーが見たい」 心からそう願いました。
負けて別れるのではなく、最後は勝利でお別れがしたかったです。
12月15日天皇杯4回戦。ついにその日が来てしまいました。共に戦う日々が終わりました。
達也のチャントもこの日が最後になりました。夢は、願いは、希望は、ついに叶いませんでした。
喜びも、悔しさも、苦しさも、いつも一緒に感じてきました。
いつでも達也がそこにいました。いつでも達也が笑っていました。
2013年シーズン、達也がいっぱい愛してくれた浦和レッズに達也の姿はありません。
達也のドリブルに胸が騒ぎました。達也のゴールに喜びを爆発させました。
献身的に動き回る達也に胸が熱くなりました。達也のはにかんだ笑顔が大好きでした。
ゴールしたあとに薬指にキスをして走る姿も、愛想のないヒーローインタビューも大好きでした。
浦和レッズでプレーした達也の姿は一生忘れることはないでしょう。
そのドリブルも、そのシュートも、走る姿も、そして流した涙も、いつまでも覚えています。
熱い気持ちで戦ってくれてありがとう。
誇りを持って共に戦ってくれてありがとう。
サポーターを大切にしてくれてありがとう。
たくさんの喜びと、
たくさんの笑顔と、
たくさんの優しさと、
たくさんの愛情をありがとう。
浦和レッズを心から愛してくれてありがとう。
本当に、本当に、本当に、ありがとうございました。
達也のこれからのサッカー人生が、多くの笑顔に包まれ、幸多いことをお祈りします。
そしてまたいつか、共に過した、共に戦った、達也が愛してくれた浦和レッズで会いましょう。
変幻自在のドリブルでゴール前に侵入し、素敵なゴールを決める達也が大好きでした。
“達也頑張れ!達也待ってるぞ!達也ゴールを決めてくれ!”
来季、どこかのスタジアムを走り回る WONDERBOY に会いに行きたいです。

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