2009/1/27

学んだこと、か? その3  




◇と、まあ、そんな感じでやってきて、3年。

さて、おいらはここんとこ、ちょっと心情に変化がある、と書いた。
結論から言えば、あれほどはっきり意識の中で分断され、忌み嫌っていた自らの死についての心情の変化である。
それはまた、生きるべき思いの変化であるのかも知れぬ。

いずれにせよ、

死は、そんなに悪いものでもない、

という思いが、もこもこしてきた。
そも、そおいう類の書き物なんかは以前から読んでいるし、一般論としても、ひとつの考え方の見本だし、自分の中にまったく芽生えてなかった考えでもないのであるが、なんていいますか、こう、すごくちゃんと、ああ、そうか、って解かったっていうか、しっくりきた感じなのだ。



チップはひとつ。

次元の違う裏と表。
表裏一体の生と死。


例えば、今、おいらは訳あって生の側で生きている。
で、そこは永遠として生の側で、生の側にいる以上、そこに自らの死は、ない。
ま、言い換えれば、死を感じることはない、とでもいいましょうか。あ、死んでる、って感じることは、ないわけだ。
生まれてくる前のことも知らなければ、死んでからのことも知らないわけ。
で、生の側にいるゆえ、自分の死は、ない。

ところが、いくら知らない、死はない、そんなもん、ないないとえばってみても、実際というか、やっぱり、ちゃあんと死ぬわけでして、そこが、実に、不思議というか、おもしろいところなわけ。
はて、なにが面白いかといえば、ここでも、いくら次元が違うとか、裏とか、表とか、死だとか、生きてるとかゆうても、やっぱ、チップはひとつだけなんで、やや、生も死も、それは実は、ひとつだった、っていうのをあらためて認識して、面白い。
面白いなあと思えば、死への思いも変わる。これも言い換えれば、楽になるというか、あんまり気張らなくなる。
やがて、そんなに悪いものでもない死、が、もこもこ完成だ。


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****


さて、でわ、なにゆえ、そのような変化が生じてきたのか?
簡単に言えば、3年の月日だ。

3年。
くどいようだが、あおりいかの一生の3倍。

3年の間には近しいがんの友人、知人、向こうは知らないけどおいらは知ってる有名人等など、随分な死が、あった。
がんだけでも、これだ。
死、だけを考えれば、それはもう、莫大なものである。
でわ、その死は、すべて、いうところの敗北なのか?
違う。断じて、違う。
死は、敗北なんかじゃ、断じてないのである。

おいら、52歳でがんになった時、今死んだら、残りの人生、どうしてくれる。おお?
って、思った。
とってもじゃないけど、この歳で、死んどれん。って思った。と書いた。

でわ、勝手に残りの人生、って頭の中で割り出したのは、何故だろう?
年寄りがいっぱいな世の中。
人の平均寿命80歳前後。
きんさんぎんさん。
等。

池田晶子のエッセイに、『平均寿命ってあるけれど、平均寿命のとき、人は死ぬのではない。たまたま、死んだ歳がその人の死んだ歳だ。』みたいな話があった。こおいう書き方ではなかったかもしれないけれど、こおいう意味だったと思う。
実に、爽快だ。
目からうろこ、尻から肛門だ。

人は皆、たまたま、死ぬのである。
たまたま100歳で死ぬ。
たまたま50歳で死ぬ。

たまたま、死んだ歳が、死んだ歳であって、人は皆、それぞれなのだ。
決して、平均寿命で死ぬのではない。

なのに、なぜか、平均寿命を余命のように、そして、そこまで生きるのが100点のように、思えてしまう。
おいらだって52歳で死んでしまうのが、他の人に比べ、もひとつ、自分自身としても、なんだか、すごく損をしているような、そんな気分であったわけだし。

思うのだ。
もし、そのとき、おいらがそこらですぐ死んでしまっていたら、ただひたすら生きる願いが、本当はひとつであるはずの分断されてしまった死をひたすら恐怖し、排除し、でも、やがて侵されてしまう現実になんとも、やりきれない思いでいたに違いない。
それは想像しただけでも、とても、悔しいし、哀しいことではないだろうか?



この3年。
いっぱい考えた。
ひまなので、そおいうことかどうか、よくわからんけど、いっぱい考えた。


ひょっとして、おいらは52年間、全然、十分、満足に生きたんじゃなかろうか?
それって、すごく、人生、十分じゃなかろうか?
決して、これって、人生足りないってわけじゃないのじゃなかろうか?
あと、何年生きられるかわからないけど、それって、実は、ここまでのおまけの生ではなかろうか?


って。
考えた。

すると、

自分はいつまで生きられるのか?
自分はいつまで生きたいのか?
自分はなぜ生きたいのか?

が、あんまり重要課題じゃないような気がしてきて随分楽になった。




生も死もチップはひとつ。
死は決して敗北なんかじゃない。
おいらはここまで、十分、生きた。



そのシンプルな思いは近しい人の死をも優しく包んだ。



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******


おいらは子供の頃から、死がとても怖かった。
小学一年生のとき、自分が死ぬとどうなるのだろう、って多分、初めて真剣に考えて、おんおん泣き出した記憶が鮮明にある。
まあ、おしょうさんになったわけでもないのに、そんな怖がりなおいらが、死について、あれやこれや考えてるってえのも、実に妙な具合である。

とりあえず、今は前ほど死が怖くない。
いつ死んでもよい万全な覚悟ができたんとわちょっと違うし、日々の心の微妙なぶれだってあるのだけれど、それでも、まあ、どのあたりで死のうが、なんでおれがここでええ、と、のたうちまわることはあるまい、と思う。
損した、と思うことも、きっとない。

あおりイカの生き方にはまだまだ程遠いけど、あの世でなんとか(あおりイカに)いじめられずにすむかもしれないような、ちょっと、そんな気がするのである。




      学んだこと、か?    おしまい









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