アホほどゆっくり資本論を読む

 

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投稿者:杉本
 「価値魂」について
@マルクスは、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」で、次のように書いていました。

「ところで、たしかに経済学は、不完全にではあるけれども(31)、価値と価値の大きさを分析して、この形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、では、なぜこの内容があの形態をとるのか、したがって、なぜ労働が価値に、またその継続時間による労働の測定が労働生産物の価値の大きさに表されるのか?という問題を提起したことさえもなかった(32)。」
その註は、・・・こうでした。
「31・・しかし、価値一般について言えば、古典派経済学は、価値に表される労働と、生産物の使用価値に表される限りでの労働とを、どこにおいても、明文によっては、また明瞭な意識をもっては、区別していない。」

「32 古典派経済学の根本的欠陥の一つは、それが、商品の分析、ことに商品価値の分析から、価値をまさに交換価値にする価値の形態を見つけだすことに成功しなかったことである。A・スミスやリカードのようなその最良の代表者においてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、あるいは商品そのものの性質にとって外的なものとして、取りあつかっている。」

TAMO2様、「この形態のうちに隠されている内容を発見した」とは何でしょうか?X量のリンネル=y量の上着において、その共通者は、労働であり、同等な人間的労働であることを、古典派経済学は発見したと、のべています。

ところが、「なぜ労働が価値に、・・・表されるのか?」わからなかったというのです。・・・これは首をかしげる表現です。一旦は、両商品の共通者を抽出しておいて、<抽出された実体>の表現のされ方を・・・問題にすることが出来なかった・・・?

投稿者:杉本
Aこれは事実として、二商品の交換関係から第三者(労働)を、抽出しても、その存在の現れ方を証明することが出来ない・・・と述べているのだから、価値実体としての労働の不在を・・・・マルクスさん主張しているのですね。ベームさんがいわはる前に、マルクスは、古典派経済学が価値実体の論証をすることが出来なかった・・・と批判していたということではないのですかな?

そこで、マルクスさんの解決法の提示が、「価値をまさに交換価値にする価値の形態」――であったのです。

それこそが、次の「価値魂」を見とった、反省規定であり、上着の価値形態としての規定であったのですね。
「そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。」(3節)

だから、価値実体の抽出について、こうのべたのです。
「上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。」(3節)

ベームはんのいわはる批判は、使用価値の量的関係からは、同等性は、抽出できない――については、そのとおりと、すでにマルクスさん返答していたのです。質的関係の分析であり、「価値をまさに交換価値にする価値の形態」を叙述することで、価値実体の論証をしていたのです。
投稿者:杉本
>資本制から出ることは、・・・ラファルグの視点にあるのかも知れませんね。

TAMO2様・・・・ラファルグに、
>悲惨への権利でしかない労働の権利
と言われてしまうと、労働力を処分する権利に支払われる代価自身が、労働者の以前の不払い労働で満たされている(資本制的取得法則)のだから労働者は、資本家に無償労働を強制されていることを、短い言葉で、端的に表していることにきずかされます。
とすると、バラ色の<労働の権利>ではなく、
資本家が、労働者に無償労働を強制する権利
こそが真実であることになります。
こんな暗黒社会であれば、誰も、<労働こそが価値の実体>
などとは言いたくも無いでしょうね。

紹介の仕方が拙く、サイトが開かないので、もう一度紹介し直します。
http://www.geocities.jp/beringia2002/paresse.html

投稿者:TAMO2
最近、ここを進めていなくてすいません。
ご紹介の本は、だめ連サイトで話題になった記憶があります。

資本制から出ることは、生産力主義でも、資本主義の徹底でもなく、ラファルグの視点にあるのかも知れませんね。
投稿者:杉本
友人に教えてもらった、次の本がとても面白く紹介する次第です。

『怠惰への権利』(怠ける権利) 1884  ポール ラファルグ
「資本主義的開発の権利でしかない人間の権利を宣言するためではなく、また悲惨への権利でしかない労働の権利を宣言するためではなく、日に3時間以上働くことから人間を守る青銅の法を鍛えるために、労働者階級が、彼らを支配しその本性の価値を切り下げる悪徳をその心から引っこ抜き、自らの並外れた力の中に立ち上がるなら、〈大地〉は、年経りた〈大地〉は、歓喜に震え、その中で新しい宇宙が躍り上がるのを感じるだろう……。しかし、資本主義の道徳に堕落させられたプロレタリアートに雄々しい勇気をいかにして求めるのか?」
 (http://www.geocities.jp/beringia2002/paresse.html)

「労働の権利への反論」と表すラファルグの思想は、驚天動地でしかない。
然し、マルクスの娘婿のこの意見に耳を傾けるならば、TAMO2様苦心の堂々巡りの労働価値説・・・に陥る潜在意識を見つけ出すかもしれない。
投稿者:杉本
TAMO2様が、>気に入ったのでここで保存
しはった  >バヴェルクの「労働価値説は循環論法」
への批判を、お気に入りの宮沢章氏が、『資本論も読む』の中で展開していることなど、TAMO2様は、お忘れですかね・・・?
 宮沢氏は、
「ボタンまでかけた上着の現身(うつしみ)にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同属の美しい価値魂を見たのである」
と『資本論』引用して、次のように語りかける。
「・・・「ボタンまで」以降の引用部分は、「労働」と「価値」について分析するなかで「価値」の関係性を説きつつそう語られるが、まさかリンネルが、「価値魂」という謎のものを見ているとは思わなかった。ことによると、カフェで人はコーヒーの原価を粗雑に計算しつつ、無意識のうちに、「価値魂」を見ようとしているのかもしれない。そうでなければ、「これ原価いくらだ」といった問いを発することの意味がわからないではないか。
 価値魂だ。
 つまり、コーヒー一杯の原価をたとえば「ざっと見積もっても百二十二円」と具体的な数字にするのは単なる便宜であって、ほんとうはもっと抽象的な「価値魂」に支配されていると見るのが妥当であろう。」(『資本論も読む』P39〜40)

人間様が、主体として、商品の使用価値・交換価値を判断しているのではなく、価値関係に或る諸商品こそがそれを判断している・・・とのマルクスの提起なのですね。ここまで考えついての、「労働価値説の擁護」でなければ、<バヴェルクの「労働価値説は循環論法」>への批判は出来ないと思うのです。

投稿者:杉本
バヴェルクの蒸留法批判・・・は、如何なるものであったのか?ヒルフアデイングは、次のように紹介している。
「・・・マルクスは、二個の商品の交換を方程式という比喩によって考察し、そして、交換される・従ってまた交換によって等位に置かれる・二物の間には同一な大いさの共通な或る物が存在しなければならぬ、と推論し、更に、それから、この共通な或る物、即ち、交換価値として等位におかれたる二物が還元しえられなければならぬところの共通な或る物の探求に入る。かくして、この『共通なあるもの』として労働が蒸留しだされるのである。だがかかる蒸留の論理的および方法論的操作こそ、マルクス理論の最大弱点である。」(『労働価値説の擁護』P12)

「交換によって等位に置かれる・二物の間には同一な大いさの共通な或る物」とは?バヴェルクは、何と読んでいるのであろうか?交換比率から使用価値を捨象された「即ち、交換価値として等位におかれたる二物」と理解しているのか?
 バヴェルクは続ける。
「・・・即ち彼は、彼の考察範囲を最初から「商品」に、即ち自然物に対立する労働生産物として彼が限定している「商品」に制限している。」(同上P12〜13)
商品が対象であるのは自明なのですから、彼の意図は、「交換によって等位に置かれる・二物の間には同一な大いさの共通な或る物」とは、「労働生産物」であると読んでいるのではないか。

しかし、
「したがって、両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。」(資本論)
とあるのだから、「交換によって等位に置かれる・二物の間には同一な大いさの共通な或る物」とは、使用価値を捨象された「交換価値」なのですね。
投稿者:杉本
@>バヴェルクの「労働価値説は循環論法」

という批判について、ヒルフアデイングは紹介しています。
「然し、ボェームによれば、
「かくの如く経験と価値とを論拠とすることは、説明を循環させるに
過ぎない。蓋し、商品の交換比例、たとえば、何故に彫刻師の労働が単
純労働の五倍であるかということが、経験の対象であるから。しかるに
マルクスは言う、それが五倍ということは経験の教えるところであり、
社会行程によってかかる換算が行われるということも経験の示すとこ
ろであると。然しこの社会行程なるものこそ、まさに説明を要するもの
である。・・(略)・・」
ボエームは要約して言う、「かくして吾々は、異種労働の生産物が何故に甲または乙の比例において交換されるか、の根本的原因に関しては、何ら知るところがない。この決定的な点において、価値法則は行きずまるに到った。」
 これが、ボエーム以外の人々もまた、強く主張するところの著名な非難である。」(『労働価値説の擁護』ヒルフアディング著改造社出版P36)
投稿者:杉本
Aさて、労働を価値の尺度とすること・・・が何を意味していたのか?をふりかえってみよう。
 あきらかに、価値の量的尺度とは、商品に含まれる社会的平均労働を単位とする社会的必要労働量が、時間によって、計測されるという自明の裡が横たわっている。この裡の下では、複雑労働と単純労働の関連・比較のされ方は、自ずと明らかであって、パベルクの非難に強さはない。そんなことのために、「説明を循環させる」労働価値説批判が、幅を利かせてきたのであろうか?

そんなことは無いのだから、ここでの問題は、<商品の交換比例を規制する価値法則>つまり、労働時間を単位とすることで、商品の交換価値の大きさを規定することができるのか?・・・・という説明の求めなのである。
しかし、これでは、リカード経済学の価値の相対性を主張するベイリーへの無批判・屈服の是認なのです。価値法則の立証・つまり、リカード価値論の対置が、パベルクの批判への回答なのです。リカード価値論への回答を、マルクスは、ベイリー批判を価値形態論で行うことで果していたのですから、ここには論理のすり替えがあり、パベルクの批判を是認せざるを得ない(屈服を前提とした)枠組みがあったのです。


投稿者:杉本
私は次のように書きました。

>上記の「三角形」が、示しているのは、
「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。」(同)での、「たがいに等しい大きさの、諸交換価値」のことではないのか?
つまり、第三者、抽象的人間労働は、「たがいに等しい大きさの、諸交換価値」の表示する共通者・実体ということなのである。

宮川 彰先生は、そのことを次のように解釈している。

「その考え方というのは幾何学の面積計算によく似ているのだということを例えています。五角形とか六角形、多面形の面積を出すとき、補助線を引き、三角形の集まりで考え、これを集計しますね。三角形の面積の大きさを示す「底辺×高さ÷2」という式は、多角形の見た目の図とは全く違ったものです。二次元の複雑な幾何学の図形の世界から、それとは違った簡単な要素へと翻訳、翻案されているというふうにいえます。
 これと同じように、商品の交換価値もその共通物に還元されて、その共通物において交換価値の大きさ、分量も比較されることになります。」(『資本論第一巻を学ぶ』宮川彰著ホットブックス新栄刊P54)

見られるように、宮川先生は、多角形の比較関係において・・・という条件を、まさに捨象しているのではないか?

>三角形の面積の大きさを示す「底辺×高さ÷2」という式は、多角形の見た目の図とは全く違ったものです。

しかし、マルクスの例題だと、・・・三角形は、多角形の現象とは全く違ったものです
・・となるはずです。
使用価値の量的関連として現れる、現象的な交換比率――を、使用価値を捨象して、「たがいに等しい大きさの、諸交換価値」として、具体的感性的な使用価値とは異なる量的存在に、転化していることが見落とされています。
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