アホほどゆっくり資本論を読む

 

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投稿者:TAMO2
いやあ、毎度恐れ入ります。今回の杉本様のご説明はかなり、素直に頭に入ったようです。

コメントをしていなくても、読むことは読んでおります。

労働価値説は、価値実体・あるいは客観主義的世界では既に行き詰まっているが、他に捕らえ方があるのではないか、と感じております。

杉本様の文章は、それを考える上で大事なものを与えてくださりそうです。
投稿者:杉本
客観主義
@TAMO2様・・こんなにもマイナーなブローグに、13名もの人が参加しています。日本――世界で13名です。ちょっと前までは、多くて4名でした。3倍増したのですよ。みんな資本論を如何に学ぶか・・考えているのですね。
今手元にしているのが、『労働過程論ノート』(田端書店刊1976年初出)著者内山節(たかし)――です。スターリン経済学(史的唯物論――労働手段体系説――生産力主義)を、労働過程論の主体性論からの読みによって克服しようとした資本論解説の本ですね。
 その中にこう述べられています。
「マルクスの経済学は、労働者の世界を、労働力の世界に置き換えたのである。その結果、労働者の世界に属する問題は切り捨てられることになった。労働者が、自分の労働の世界の中でかかえている矛盾は、マルクス主義の体系のなかから消えたのである。
 それをわたしは、「客観主義」と呼ぶ。<彼>の主体的な世界を捨象した思想は、<彼>にとっては客観主義でしかない。」(同書P10〜11)

彼の読みによれば、特にこの価値論など「客観主義」でしかないですね。
TAMO2様本日の学習課題の例です。
「一八二三年には、ブラジルのダイヤモンド・・・じつはそれよりもずっと多くの労働を、したがってずっと多くの価値を表わしていたにもかかわらず、そうだったのである。もしも鉱山がもっと豊かだったならば、それだけ同じ労働量がより多くのダイヤモンドに表わされたであろうし、それだけダイヤモンドの価値は下がったであろう。」

マルクスは次のいわゆる価値法則の例証であった。
「一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ小さく、その物品に結晶している労働量はそれだけ小さく、その物品の価値はそれだけ小さい。」

この法則の例証としての、解釈であれば
TAMO2様
「労働生産性が高いと単位(1個、1枚、1冊など)商品あたりの価格(価値)は低落する」は正しく、
「ずっと多くの労働を、したがってずっと多くの価値を表していたにもかかわらず、」への疑問が出るのも肯ける。
投稿者:杉本
A長谷部訳はこうです。
「しかもそれは、はるかに多くの労働を表示し、かくしてより多くの価値を表示した。」(長谷部訳世界の大思想P29)
「そうだったのである」(新日本新書版)にあるこの表現が長谷部訳には抜けていますね。
もう一度文を広げて見ますね。
「たとえば、同じ分量の労働でも、豊作の時には八ブッシェルの小麦に表され、凶作の時にはただ四ブッシェルの小麦に表されるにすぎない。同じ分量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々。ダイヤモンドは地表にはめったにみられないので、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。そのため、ダイヤモンドはわずかな体積で多くの労働を表すことになる。ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。エッシェィヴェーゲによれば、一八二三年の時点で、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去八〇年間の総産出高は、ブラジルの砂糖農園またはコーヒー農園の一年半分の平均生産物の価格にも達していなかった。ダイヤモンドの総産出高がはるかにより多くの労働を、それゆえ、より多くの価値を表していたにもかかわらず、そうだったのである。」

「そうだったのである」がまず引いているのは次のことでした。

「ジェイコブは、金がかつてその全価値を支払われたことがあるかどうかを、疑っている。このことは、ダイヤモンドにはいっそうよくあてはまる。」

すると例題はすでに与えられていた回答に戻りますね。

「たとえば、同じ分量の労働でも、豊作の時には八ブッシェルの小麦に表され、凶作の時にはただ四ブッシェルの小麦に表されるにすぎない。同じ分量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する、等々。」

「貧しい鉱山」での労働量は、「豊かな鉱山」での社会的必要労働量に均されてしまうんですね。この回答が、他産業との現実問題で当てはまるのか?どうか?ですよね。
投稿者:杉本
B「商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が採用されてからは、一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう。イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが、彼の個別的労働時間の生産物は、いまでは半分の社会的労働時間を表わすにすぎなくなり、したがって、それの以前の価値の半分に低落したのである。」(資本論)

この例は、機械化・合理化の難しい鉱山業、石炭産業の変化に明らかですね。1960年代に、戦後の生産手段への新たな投資・合理化の中で日本の生産様式が、アメリカと対当しうるほどの社会的生産力を備えるに到ると、鉱山業は、社会的平均よりも生産力が劣ることになりますね。これは、農業でも起こったことですね。
あれ!これでは、
「労働生産性が高いと単位(1個、1枚、1冊など)商品あたりの価格(価値)は低落する」
ことは、通用する部分が限られることになってしまいますね。

でも、価値は個別に、「労働生産性が高いと単位(1個、1枚、1冊など)商品あたりの価格(価値)は低落する」決められたのではなく、商品の社会関係で決められたのではないですか?

そこでまた、価値の実体の導出が問われるわけですね。
私も内山さんの、スターリン経済学が客観主義との批判であれば認めます。
しかし、資本論はそうではないのが、価値実体の導出に秘められていると思うのです。
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