アホほどゆっくり資本論を読む

 

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投稿者:杉本
TAMO2様
ご丁寧な挨拶ありがとうございます。
つたない私のわずかばかりの提案を
励ましていただきました。
何よりもの応援です。ありがとうございます。
資本論をより難しくしてきたのは、宇野理論
やカウツキー主義のように、トンでも理解労働者に
インテリが押し付けて、きたからではないかと思います。このような数多の資本論探求のブローグが、地道な作業を積み重ねることがとても大切と思います。自分でこつこつ読み重ねたことを、他者に問うことができるすばらしい、能率の上がる学習法です。これからもよろしくお願いします。
投稿者:TAMO2
いつもコメントありがとうございます。

じっくり読む時間がとれず、しかも資本論そのものよりも入り組んだ論理なので、なかなかコメントを返せませんが、気になさらずに書いてください。

小生にとって、杉本様の文章は貴重な財産になると思います。
投稿者:杉本
前回提起した交換比率ではない交換価値について
@単純な価値形態で、使用価値と交換価値は次のようにあらわされたのでした。
「そして、この関係の中では、価値を表わしたい商品は元々使用価値のみをもっていると見なされ、それに対して、価値を表わす商品は元々交換価値のみをもっていると見なされる。」(資本論原P76)

しかし、冒頭で表された交換比率は、使用価値の具体的姿態としてのみ意義をもつのに対して、価値形態上着は、使用価値の姿態のままに交換価値としてのみ意義をもつものに変化して、再規定されているのですね。

『資本論初版』では次のように表されている。
「一個の商品、たとえば一クオーターの小麦は、きわめて多様な割合で他の物品と交換される。けれども、この商品の交換価値は、X量の靴墨で表現されようと、y量の絹やz量の金(地金)等々と交換されようと、あくまで不変である。だからそれの交換価値は、これらの異なった表現様式から区別されなくてはならない。」
(資本論第一巻初版今村訳筑摩書房刊P269〜270)

X量の靴墨、y量の絹やz量の金(地金)等々で表現される交換価値とは、交換比率のことに他ならない。交換比率とは区別される交換価値について、マルクスさんは、明らかにしようとしているのですね。

そして、交換価値の実体が労働であり、労働の対象化されたものが価値であることを明らかにした後で、社会的必要労働量と、労働の生産力による価値の大きさの規定を述べた後に、こうまとめている。

「今ではわれわれは価値の実体を知っている。それは労働である。われわれは価値の大きさを測る尺度を知っている。それは労働時間である。価値に対して交換=価置というレッテルを貼る価値の形態が、これから分析されなくてはならない。」(同上P273)

これはもう<価値に対して交換価置というレッテルを貼る価値の形態>と素直に理解できるのではないだろうか?


投稿者:杉本
Aそして、価値形態の分析に入ってすぐにこう述べる。
「価値は交換価値として自分を表現することによって始めて、独自の、使用価値から区別される形態を得るのである。」(同上P286)

「等価物であるという規定は、一商品が価値一般であることを含むだけでなく、一商品がそれの物的な形態で、それの使用価値のままで、他の商品に対して価値として通用し、、したがって直接ににそのままで他の商品にとっての交換価値として登場するということを意味する。」(同上P286〜287)

等価物としての役立ちをはたす商品は、直接交換可能な使用価値であり、価値形態であり、その対極に形態規定される使用価値の右極に、交換価値としての形態規定をうけとるのですね。

もう少し、価値形態論の分析が必要ではあろうが、又の課題にしておこう。

以上の分析からでも、価値形態論で、価値の現象形態としての交換価値という、交換比率とは異なる独自な商品形態が考察されていることが理解できる筈です。
交換比率を規制する価値法則というリカード理論をこそ批判していることが了解できる。
私たちは、カウツキーや、ローゼンベルグの交換比率と価値の思想では、商品分析・商品批判が出来ないことに盲目だったのです。
投稿者:杉本
<価値の現象形態としての交換価値>と交換比率と価値

@『資本論』読みの『資本論』知らず
大谷氏の「労働=費用」説批判
「価値人類犠牲説」と同じではないか

と題する記事の中に次の記述がありました。

 「生産物が生産されるのはその具体的有用性、つまり使用価値があるからこそ生産されるのであるが、この資本主義社会においては直接使用価値を目的として生産が行われるのではなく、剰余価値の取得を目的として生産が行われるのであり、生産物は商品という形で生み出されるのである。直接Aの使用を目的としない者がAを商品として生産し、直接Bの使用を目的としない者がBを商品として生産し、それぞれの生産物であるAとBという商品の交換を通じて、各々がその使用価値を実現しようとする時、この交換がいかなる比率で行われるかということにおいて、それぞれの商品AなりBなりの持つ価値(交換価値)が問題になるのである。そしてx量のA商品がy量のB商品と同じ価値、すなわち同じ分量の抽象的人間的労働をもっているという関係をxWA=yWBという関係で現わしているのである。」(『海つばめ』1064号)

「この交換がいかなる比率で行われるかということにおいて、それぞれの商品AなりBなりの持つ価値(交換価値)が問題になるのである。」

これでは、交換比率と価値の関連を解いたリカード理論でしかない。
ご存知のように、マルクスは、資本論冒頭で、こう述べていたのです。

「第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。」(資本論原P51)
投稿者:杉本
A更に、簡単な価値形態を考察する結論部でこう述べていたのです。

「この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。もっとも、このことを心えておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。」(同上原P75)

「商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、・・・」

価値の現象形態としての交換価値――について、冒頭で先取り的に述べていたの
です。

Bでは、今日まで、常識的解釈とされた交換比率――価値とは異なる内容とはなんであろうか?

その次のページにて、こう表されている。

「そして、この関係の中では、価値を表わしたい商品は元々使用価値のみをもっていると見なされ、それに対して、価値を表わす商品は元々交換価値のみをもっていると見なされる。だから、ある商品の単純な価値形態とは、その商品の中に含まれる使用価値と「価値」の対立の単純な現象形態なのである。
 労働による生産物はどのレベルの社会でもそれが人に使用されるものであることに変わりはない。歴史上の特定の発展段階になると、人に使用されるものを生産するのに注ぎ込まれる労働がその物の具体的な属性、つまり、その物の価値と見なされる。そしてその時初めて、労働生産物が商品となる。それは要するに、商品が単純な価値形態をとると同時に労働生産物も単純な商品の形態をとるということであり、商品形態の発展が価値形態の発展と同時に起こるということである。」(同上P76)
投稿者:杉本
C「商品が単純な価値形態をとると同時に労働生産物も単純な商品の形態をとるということ」

これは、労働生産物の商品への転化ではなかろうか?
マルクスの掲げたまずの課題は、

「商品が単純な価値形態をとると同時に労働生産物も単純な商品の形態をとる」
ことの論証だったのですね。
リカードは、価値形態を、超歴史的形態と自然本能的に考えていたのに対して、マルクスは、次のように、過渡的、歴史的形態と、その事を批判していたのです。

「(32) 古典派経済学の根本的欠陥の一つは、それが、商品の分析、ことに商品価値の分析から、価値をまさに交換価値にする価値の形態を見つけだすことに成功しなかったことである。A・スミスやリカードのようなその最良の代表者においてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、あるいは商品そのものの性質にとって外的なものとして、取りあつかっている。その原因は、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われていたというだけではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態であり、ブルジョア的生産様式はこの形態によって一つの特別な種類の社会的生産として、したがってまた同時に歴史的なものとして、性格づけられている。だから、人がこの生産様式を社会的生産の永遠の自然的形態と見誤るならば、人は必然的に、価値形態の特殊性を、したがって商品形態の、すすんでは貨幣形態、資本形態等々の特殊性を見落とすことになるのである。」(同上P96)

「価値をまさに交換価値にする価値の形態を見つけだす」ことが課題だったのです。
投稿者:杉本
マルクス『賃労働と資本』学習ノート 草加耕助「闘う労働者」1985年3月1日号 (戦旗社)よりhttp://bund.jp/modules/wordpress/index.php?p=425 かの有名な草加耕助氏の「旗旗」から、失礼ながら無断で引用させていただきました。(草加様あしからず)

「およそすべての商品は、具体的効用である「使用価値」と、他の諸商品との交換比率を表わす「交換価値」とをもっている。この交換価値を貨幣で評価したものが「価格」である。
 ところで、まったく性質のちがう諸商品が交換されあう時、この商品の両者に、質的に同じで量的に比較可能なものがなければ、両者の交換比率は決定されえない。それが商品の「価値」と呼ぱれるもののことである。そしてその商品の価値の大きさは、その商品の生産に、直接・間接に要した社会的必要労働時間によって決定される。このことを「価値法則」という。」

TAMO2様、草加氏は、宇野理論を採用しているため、価値の実体でなくすぐさま価値法則がでてくるのですね。しかし、左翼の常識の発端に、カウツキーの価値論があるという「発見」ができるとは思います。
投稿者:杉本
<カウツキーの量的比率としての「諸交換価値」からの共通者の導出>
カウツキ−の諸交換価値から還元される共通者への理解は、特殊なものでなく常識的な解釈であることは、次の中山さんの同一の了解にも現れている。宇野派であった人もカウツキ−に毒されているのですね。

「しかし、この場合(4版の諸交換価値が同等の大いさの交換関係に注目するのでなく、「だから小麦はある唯一の交換価値をでなく、多様な交換価値をもつ」に注目して)それらの商品のそれぞれ異なる分量に対して、同じ小麦一クオーターが交換されるのであるから、われわれは、やはり小麦一クオーターの交換価値がさまざまな異なる形(物的比率)で表現されるというのである。
すなわち、ある商品一定量に対するさまざまな商品の交換比率(・・略・・)は、その商品(・・)のもつ同じ商品の交換価値をあらわしているのである。そしてそのことから、交換価値とは、単にその都度ごとの交換比率あるいはその一定の平均というような外的なものでなく、その商品に内在している実質的なあるものを根拠としているということ、即ちその商品に内在する価値そのものの「現象形態」にほかならないということがわかるのである。」(『資本論の研究』上 中山良介)

諸商品が入る同等の大いさの交換関係が見えないのですから、<使用価値を捨象>することの決定的意義がみえないのですね。この高名な反スタ派の理論家は、商品の2要因・価値と使用価値が、諸商品の交換関係(価値関係)で、使用価値と価値形態(交換価値)の商品形態に示される2重の姿態を持つことを見落としていたのですね。

マルクスの古典経済学への批判としての、価値と使用価値の混同批判を目的とした価値実体ばかりでなく、使用価値に表示される労働・価値に表示される労働の二重の抽出の筋道の理解が無いのですね。もっとも、諸使用価値の交換比率から使用価値を捨象できないのですから、使用価値と区別された、具体的な労働生産物の質とは区別された<量>としての交換価値と使用価値との区別が無いのです。
投稿者:杉本
@<量的関係としての交換価値の批判>
あるX氏の疑問に答えようと必死に考えたことがありました。思い出したので載せていただきます。

>ここで問題なのは「交換価値とはどういう定義で表される物なのか」ということである。ある特定地域での価値が即ち全ての地域の価値となりうるのか、その時々、その場所によって絶えず変化するのであれば何を基準に、いやどの範囲の時間、場所を認めて交換価値となし得るのか、その定義が非常に分かりづらい。

量的関係であり諸交換価値ある交換比率として現れる交換価値は、偶然的で、相対的ですよね。この現象面の背後にある真実を導き出すためにマルクスは商品分析の問題 設定をし、解いたのですが、4版と初版では叙述が違うのです。この比較から何が浮ぶかですし、読者の反応へのマルクスの回答でもあったはずです。

資本論4版
「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。だから、小麦はただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する、ということになる。しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。」


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