アホほどゆっくり資本論を読む

 

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投稿者:杉本
@TAMO2様
ご無沙汰しています。
私は、とってもマイナーな、この掲示板が、日によっては20の大台を越える読者がいることをいぶかしく思っていました。
本掲示板が質的に変化したことを教えてくれるからです。TAMO2様とても素晴らしいことです。
それなりに、調べてみましたら、その動きは、TAMO2様の広いお付き合いの結果であろうと思いました。
一節二節が、「商品に表される労働の二重性」についての、説明であり、リカード価値論の批判であることは論を待たないことと思います。
(「最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現れた。後には、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである(12)。この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ちいって説明しておこう。」)

ところが、この論点がないがしろになっているのではないか?とおもえたのです。
その原因は、この考察で、価値の相対性を主張することで、労働価値論を批判した、ベイリーや、「用語論争の考察」の主張に触れていないところにあるのではないかと思えたのです。この点は、私の欠点でもあったかと反省しています。

投稿者:杉本
Aマルクスは、次の見解を批判しています。
「物品Aの価値の上昇というのは、、ただ、物品BやCなどとの交換価値のことを言っているにすぎない」
そして、「例の利巧ぶっている男がどんなに深い呪物崇拝にはまり込んでいるか・・・」(『学説史』7国民文庫P229〜230『資本論草稿集』7P190〜191)と評しています。

「価値は物の属性」を批判することにおいて、(使用価値の)交換比率と交換価値の区別そして、第3者、そして価値――の区別と関連が内在的なものとして把握されなければならないと思うのです。
交換関係において表示される共通者は価値ですが、
交換比率ではなく等価物としての交換価値が表現する同等のものは、第3者、「同等な人間的労働です。(等価物=直接交換可能な使用価値と考えた方が理解が進むのではないでしょうか・・)
マルクスさんは、経済学批判に明らかなように「等価物として通用」する交換価値という感性を超えた社会的なものに、第3者を求めています。交換比率は、使用価値の比率でしかありませんし、使用価値に第3者を求めるのは、「価値は物の属性」を承認するものでしかないです。使用価値に表示される労働は具体的有用労働だからです。
ところが、河上肇氏は、「そこに一と二という数量上の比率が成り立つのは、これら双方のもののうちに共通なあるもの(V)が含まれており・・・」(入門P140)と書いているのです。「価値は物の属性」を批判する――ことが出来ていないのです。交換比率は、使用価値の量的比率でしかなく、表示される労働は具体的有用労働でしかありません。エンゲルスの修整した四版の「互いに代位しうるところの・すなわち互いに等しい大きさの交換価値でなければならない」――という新たな規定、つまり、経済学批判の使用価値の具体的感性的姿態とは異なる「等価物」を、分析対象にしていないのです。
 交換比率の規制者としての価値――を暗黙の前提にしているとしか思えません。
価値――価値の実体が求められてこそ、それが言えるのに、です。つまり、労働生産物には、超歴史的に、具体的有用労働と、抽象的人間労働が含まれているという前提を、河上肇氏は暗黙のうちに、意識しないで語っているのです。
投稿者:杉本様@TAMO2移動
>違う使用価値が相対して商品世界を作る。裏側には違う有用労働があり、労働の世界の組み合わせ=社会的分業がある。注意すべきは社会的分業が商品生産の条件であり、商品生産が社会的分業の条件であるわけではない、ということだ。

以上のことはよく言われるのですが、TAMO2様は、次の文に騙されているのです。

「同じように、上着とそれを生産する労働との関係は、裁縫労働が、特殊な職業となり、社会的分業の自立した一分岐となることによっては、それ自体として変わることはない。」

社会的分業としては、いつの時代も変わりが無いはずですが、マルクスさんはこう述べていたのです。

TAMO2様次の三つの訳を見てください。
>「社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的な相違が、一つの多肢的体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。」

「その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。」(新書版P72)

「互いに従属しないで自立した生産者達の私的事業として営まれる有用労働のこのような区別が発展し、遂には多くの分肢をもつ体系、社会的分業へと成長する。」(初版今村訳P276)

今村訳がわかりやすいですね。互いに依存しない、有用労働の私的編成としての社会的分業の体系が、商品生産の社会的分業の体制なんですね。
社会的分業の組織の仕方が、商品生産の社会と、そうではないそれ以前の社会とでは異なるのですね。自明のことなんですけども。自然素材と労働との結合=使用価値の図式化のなかで、使用価値の生産としては、いつの時代も変わりないので、社会的分業の体制も変わりない・・・という 眼くらましにあっているのです。
使用価値の生産の仕方も、社会的分業の編成が異なるので違うということなんです。
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