より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。このような換算が絶えず行なわれているということは、経験の示すところである。ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身ただ単純労働の一定量を表わしているにすぎないのである(15)。
(15) 読者に注意してもらいたいのは、ここでは、たとえば一労働日にたいして労働者が受け取る賃金や価値のことではなく、彼の労働日が対象化される商品価値のことを言っているのだということである。労賃という範疇は、われわれの叙述のこの段階ではまだ全然存在しないのである。
この文章には、裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプション問題とも絡む、深刻な問題がある。例えば、非常に優秀なプログラマーは、平凡なプログラマーの1/20くらいの労働時間で同じ成果を出すという。また、小生の業界には、全くのオリジナリティーのあるプログラムを書く人は、文字通りプライスレス(原初的存在は値段のつけようがない!)の仕事をする。そして、そのような「労働」は、確実に広がっている。ネグリの言う知的労働のことである。小生は、それこそがコミュニズムの未来に可能性を与えると考えている。でもまあ、ここは所謂「肉体労働」=計量・(せいぜい数倍程度で)交換可能な労働(力)として捉えておこう。
いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的過程によって生産者の背後で確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われる。簡単にするために、以下では各種の労働力を直接に単純労働力とみなすのであるが、それはただ換算の労を省くためにすぎない。
そういうわけで、マルクスは以後、単純な・計量可能な・交換可能な労働(力)に論理を集中して論じる。ただし、今日的地平に立てば労働価値説の破たん、限界をも示す言葉として留保しつつ。

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