アホほどゆっくり資本論を読む

 

カレンダー

2022年
← June →
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

QRコード

カウンター

本日のアクセス
昨日のアクセス
総アクセス数

ブログサービス

Powered by

teacup.ブログ
RSS
投稿者
メール

 
コメント
URL
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:杉本
TAMO2様
>さて、ドルの支配を打ち破った理由については、・・・・

「第四インターナショナル」は次のような見解でした。

「世界経済の危機の本質と現局面」(一九七九年四月、「第四インターナショナル」誌、第二九号)
一九三〇年代との決定的ちがい
「戦後の世界経済は、まさしくこのアメリカの圧倒的経済力を背景にした巨額の輸出超過=貿易収支の黒字が、国際的財政支出、すなわち対外軍事・経済援助を中心とした帝国主義的世界支配のための費用をまかなっていくという構造のうえに再建された。ドルを基軸としたIMF(国際通貨基金)体制とは、この構造を保障する枠組みにほかならなかった。
その点で戦後の世界経済は、はじめから労働者国家圏との対抗構造によって規定されていたと同時に、それを内部に構造化して成立したのである。だがいまや、アメリカ経済の防衛と、帝国主義的世界支配のための費用負担とはまったく両立しえなくなった。
・・・・略・・・・
戦後においてはこのドルの供給は、戦前のように資本輸出の形をとった“商業的”支出によってではなく、大規模なドルの援助・供与=非商業的支出によって行われた。そしてこれは、ソ連を中心とする労働者国家圏に対抗する核軍事戦略に支えられた、対外軍事・経済援助の形をとってなされたのである。
・・・・略・・・・・
ところが今日、まさにこのドル支配の基礎であった過大な国際的財政支出と巨額の軍事負担が、アメリカの国際収支を圧迫し、ドル支配を脅かす最大の要因に転化しているのである。しかもそれが、「反共軍事戦略体系」の展開としてなされてきたドルの政治的支出であったことによって、国内経済の景気循環的要素の必要に応じて縮少させることができない。現在のアメリカ経済の危機はまさにそのことによって増大させられているのである。」

「新資本主義とは、国家による経済活動への介入の増大を明確な特徴とする資本主義なのである。」・・・・という師匠のマンデルはんの言ってはることとは大層違ってはりますね・・
投稿者:杉本
プレトンウッズ体制のもたらした新しい事態について、マンデルはこう評価していますね。
『マルクス経済学入門』エルネスト・マンデル著第三章新資本主義
(1) 新資本主義の起源
「にもかかわらず、こうした全般的発展の背景には、従来の資本主義体制にたいする疑問、資本主義体制の未来にたいする疑問があきらかに存在しているのである。これはもはや疑問の余地のないことからである。ブルジョアジーのあらゆる決定中枢層のなかでは、経済の自律的メカニズムや「市場機構」それ自体が体制の存続を保証することができないし、資本主義の内在的自律機能にもはや依存することは不可能であり、もし資本主義体制を救おうとするならば、ますます規則的で体系的な性格の意識的でより一層大胆な介入が必要である、というもっとも深い確信が支配している。
ブルジョアジー自身も、資本主義経済の自律的メカニズムがその法則を維持していくということをもはや信頼していない以上、体制を長期的に救済していくための別の介入勢力が必要とされる。そして、この力が国家なのである。新資本主義とは、国家による経済活動への介入の増大を明確な特徴とする資本主義なのである。この観点からみれば、また西ヨーロッパにおける現在の新資本主義は、合衆国でのルーズベルト(ニューディール政策)の経験の延長にすぎないのである。」

プレトンウッズ体制―IMFは、「ニューディール政策の経験の延長」ですし、「ドルと金の兌換停止」は、この、枢軸にある「精神」を離れるものだったのですね。それを表したケインズ経済学に対して、「中央計画経済よりもはるかに優れているのは価格制度であり、価格の「本当の機能」は「情報を伝達する仕組み」になることである。」(『市場対国家』ダニエル・ヤ―ギン)と、ハイエクの批判(「見えざる手」・・新自由主義の綱要)を表している人もある。
マルクスの「物象的依存の体制」という商品批判を、国家資本主義によって成し遂げようとしたソ連社会主義経の批判が問題の中心なのですね。
投稿者:杉本
>さて、ドルの支配を打ち破った理由については、四トロで恐縮ですけど、以下のサイトに同意しております。
http://redmole.jp/bunko/18/bunko18f.html

要は、他の資本主義国の復活が理由かと。

プレトンウッズ体制は、冷戦と、イギリス労働党・ドイツ社民の例のように、それらを補完者とする国家による資本制の統制機構(ニューディール・ケインズ主義)であったはずですから、この構成が変化していない条件の下(1971年)でそのように言いえるのか疑問に思うのです。もう少し御教示の論文を検討してみます。

TAMO2が教えてくださった国際革命文庫に、マンデルの資本論解説がありました。

「他方、使用価値をもつすべての生産物が、必ずしも交換価値をもっとはかぎらないのである。商品が生産されている社会自身が、交換に基礎をおき、交換が日常的な習慣になっている社会になっている程度に応じて、それは交換価値をもつのである。
生産物が交換価値をもたない社会は存在するだろうか?
交換価値、ましてや商業や市場の基礎は、分業の一定程度の発展によってつくりだされる。生産物が生産者によって直接に消費されないためには、すべての人が同じ物を生産するのに従事してはいないということが不可欠となる。もしある特定の社会が分業をもたないか、もしくは、もっとも原始的な分業形態をもっているにすぎない場合、そのときは、交換の存在理由はまったくないことはあきらかである。」
(「マルクス経済学入門」第一章)

社会的分業の発展による使用価値の交換価値としての規定では、現象としての交換比率と商品の二重の質的規定としての交換価値との区分が付けられていないのは明らかですよ。
投稿者:TAMO2
杉本様、ご提示のマルクスの文章、きれいに忘れていました。

さて、ドルの支配を打ち破った理由については、四トロで恐縮ですけど、以下のサイトに同意しております。
http://redmole.jp/bunko/18/bunko18f.html

要は、他の資本主義国の復活が理由かと。
文革は、国際的な青年蜂起を受け、生産過程の意思決定から疎外された中国人労働者・農民の蜂起という側面があるようですね。ただ、レーニンの「国家と革命」的に言えば「何と置き換えるか」が共産党政権下で可能であったかという悲劇が。まあ、共産党が真実革命的であったなら、ああいう混乱にならなかったという気もしないではありません。

結局のところ、ソ連にせよ中国にせよ、そして国際共産主義運動の主導権を握っていた各国共産党にせよ、青年の叛乱の意味を捉えそこなったばかりか、それに敵対していたことが「三振」の主体的要因かと。
投稿者:杉本

TAMO2様
>しかし、同時に戦争なんぞがあったりすると、今でも金地金がモノを言ったりします

資本論に次の記述があります。
 「近代産業の全ての歴史が示しているように、もし国内の生産が組織されていれば、金属は、実際には、国際貿易の均衡が一時的に混乱した際、その決済のために必要とされるだけであろう。
国内では、すでに金属貨幣が必要でないことは、非常の場合にはいつでも、いわゆる国家的諸銀行の現金支払停止(銀行券の金属貨幣との兌換停止)が唯一の救済策としてとられるということによって証明されている。」(資本論V32章新日本新書11P894)
そして1971年の「ニクソンショック」は、金とドルの兌換も停止してしまいました。
 こんなおっそろしく先鋭なマルクスの論述があったのですね。最近まで知りませんでした。
 とすると、ベトナム革命戦争―国際的な反戦闘争は、ドルの支配による世界の帝国主義的支配を打ち破っていたのですね。中国の文革は、このような国際階級闘争に迫られての実行であったはずですから、世界の労働者階級は折角の勝機をものの見事に三振することで、逸したのですね。(三振したことも自覚できないというのが本当のところですかね?)
投稿者:TAMO2
杉本様の議論は貨幣について考えることに行き着くんですよね。少なくとも小生の場合。

貨幣が物々交換の中から生まれたかどうかは分からないのですけど、しかし、資本論の後のほうで出てくるように、商品の中から貨幣が排除され、物神化されますよね。

さて、そのように一旦排除〜物神化された貨幣は、マルクスが言うとおり、それ独自の運動を起こすわけです。で、何が起きるかというと、今や電子マネーなんぞがピピッと携帯!で取引されているわけで、物的根拠が不明であっても、流通しちゃうっていう、もう、なんというか、貨幣=幻想ってなものです。

しかし、同時に戦争なんぞがあったりすると、今でも金地金がモノを言ったりします。

この両極端は何か? んなことを考えなきゃあならないな、とここ5年ほど考えております。

とりあえず、読み進めるように努力します。
投稿者:杉本

TAMO2様の指摘
>杉本様がご指摘の「岡崎的解釈」ってのは、社会的平均的労働=労働価値の前提というマルクス主義からの必然的結論と小生には思えます。

早速でありがとうさんです。
いかにもカウツキー以来の伝統的解釈が、今日まで「労働価値説」と流布されてきました。社会的平均労働による社会的必要労働量が商品の価値法則・・・というのが金科玉条というわけです。
しかし、これでは変動相場制の下での国際通貨ドル(金不換)が維持される根拠が不明です。マルクスは、資本制的生産様式が信用制度を生み出すなかで、生産の管理者としての資本家が不要となる(旧来の産業資本家は、金融資本家の単なる使用者・工場の単なる管理人となる)ことを論証するばかりか、「生産物」が信用によって大部分社会に配分されていることを分析・論証することで、貨幣(金)が不要になることも教示していると思うのですよ。
とすれば、その基礎にある細胞としての商品が、商品の交換関係(価値関係)を形成するから、第3者(労働)が表出するのであって、人々が価値関係を結ばなければ、そもそも労働こそは全てにはならないですよ。
とすればいわゆる「労働価値説」の信望こそ「社会帝国主義」の役割を果たしているのではないですか?
マルクスは、岡崎さんとは異なる仕方で第3者=労働を導き出している筈です。
大言壮語を言えるほどの学者でもない一労働者が、そんなことを考えるというのも面白いことです。
投稿者:TAMO2
あ。犬同志、お時間があれば「貨幣論」(岩井克人著、ちくま新書?)という本をお読み下さい。ご指摘の貨幣の伸縮性について、多くの示唆を与えてくれると思います。
投稿者:TAMO2
杉本様の文章を5回くらい読んで、やっぱり難しいと思いつつ、1bit−CPU頭脳を動かしてみました。

例えば、同一機能を有するシャープペンシルが2つあるとして、片方は中国製で一本20円、方やキャラグッズで一本300円、というようなものがあります。

このようなことが広くあること自体が、現在資本主義における「労働価値説」を一部否定する現象ではないか、と思っております。

欲望論との絡みから、労働価値説をどう捉えるかという提起と小生には見えますが、いかがでしょうか? で、杉本様がご指摘の「岡崎的解釈」ってのは、社会的平均的労働=労働価値の前提というマルクス主義からの必然的結論と小生には思えます。

現代資本主義を視るためには、いかようにして乗り越えていくべきか。
投稿者:杉本
(2回に分けて投稿しました。見にくいですがかんべん願います。)
第3者(還元される共通者=抽象的人間労働)と「交換価値のうちに現れる共通物」(岡崎訳P78国民文庫)つまり、価値実体と価値との混同をしているのが伝統的な日共の岡崎先生の理解です。

「しかし、このような交換割合が単に偶然的な主観的なものとしてではなく、客観的なものとして社会的に認められるためには、米にも綿布にも、それらを客観的に同等とする共通な実体が含まれていなければならない。つまり、商品の交換価値は、各種の商品に共通な同じ価値実体の現象形態でなければならないのである。」
 (『資本論入門』P40岡崎次郎著 国民文庫)

リンクされている「けいの『資本論』学習 ノート」も同じ解釈をしている・・・と指摘されるならば、皆さんは驚いてしまうでしょう。

「●1クォーターの小麦の交換価値(正しくは諸交換価値)は、x量の靴墨やY量の絹やz量の金である。この場合、x量の靴墨やY量の絹やz量の金は一つの同じものを表している。そして、1クォーターの小麦の諸交換価値(正しくは交換価値)であるx量の靴墨やY量の絹やz量の金は、それらとは区別されたある実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない。」
1|2
teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ