以前にも、「相手をどう呼ぶか」「配偶者の呼び方」というテーマで書いたことがありますが、今回もそれらに少し関連した話題を。
最近まわりで結婚する人が3組ありました。
そして
3組とも「夫」の姓を名乗っています。
(ちなみにそのうちの1組の結婚式に行きましたが、それは○○家と××家の結婚式で、今でもそんなのあるのかと驚きました。まあ田舎だと普通なのかも)
「だからなんだ?」と思われるでしょう。というのも、
日本の夫婦の95〜98%(厚生(労働)白書等によると)は
夫の姓を名乗っており、ウチの場合も僕の姓になっているからです。
一般に知られている反対の例は、田中角栄の娘と結婚した男が田中姓を名乗っていることくらいか(他の例があれば教えてください)。
しかし本当は僕は嫌なのです。自分の姓があまりにも単純だから、というだけでなく、夫婦の一方の側の選択肢を奪う現在の戸籍制度に反対なのです。
20年も30年も○○花子さんだった人が、結婚を機に××花子さんに「変身」する、というのはどう考えても合理的理由がありません(もちろん反対に、××太郎が○○太郎になるのも)。
ここで気を付けなければならないのは、このことに「合理的理由」があると主張する人が、日本には「
家制度の伝統」があるのだ、ということです。
これは
一見もっともなようで、全く笑うしかない屁理屈です。
なぜかというと、現在の戸籍制度の基本となったのは、明治になってから作られた「人為的」なものだからです。
みなさんは一度くらい時代劇をご覧になったことがあるでしょう。そこに登場する庶民に「苗字」がないことを不思議に思われたことがありませんか? 「おけいちゃんは今度佐平次と祝儀を挙げるそうよ」などという会話(もちろん創作です)は普通にありえます。おけいちゃんは、結婚しようとしなかろうと、姓を変える必要がありません。元々ないのですから。
それが
明治になって、「近代化」の名の下に、
庶民にも苗字を強制的に持たせたのです。同時に男を戸主とする家父長制的家制度が導入されました。そこでは、女性には一切の権利が認められなかったのです。女は父親に従い、夫に従い、息子に従う、という在り方が強制されました。
かなり強引に端折り(はしょり)ますが、現在の
日本国憲法は、
すべて国民は個人として尊重される(13条)とし、
婚姻における両性の本質的平等を謳っています(24条)。戦前の
大日本帝国憲法的価値観は否定されたはずでした。
平等とはどういうことでしょうか? 単純に考えれば、50対50ということではないでしょうか? 今回の話でいうと、結婚において、
夫の姓を選ぶ人と妻の姓を選ぶ人の割合が50対50であるということでしょう。
では冒頭の数字を思い出してください。
夫の姓対妻の姓は95対5です。
これは平等といえるのでしょうか? どう理屈をつければこの格差を合理化できるのでしょう? 「まともな」感覚を持っていれば不可能でしょうね。
さらに踏み込んで言えば、真の平等は、どちらかを強制的に選ばせることではなく、互いの意思を尊重することでしょう。夫婦の中には、どうしても相手の姓が欲しい、という人もいるでしょう(誰かとは言いませんが、有名なニュースキャスターの女性とか)。そういう人もいればそうでない人もいる。それらの
意思を尊重する=選択肢を揃えることが、平等に近づく道なのではないでしょうか?
残念ながら日本の支配層の人たち(男も女も)の頭の中には、
「大日本帝国憲法的価値観」がこびり付いているのです。
これは何も、夫婦の性だけの問題ではありません。日本国憲法に列挙された一連の権利全部について言えることです。これらの権利を「けしからん」と思っている連中がいる限り、日本の未来は暗いままです。

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