「こなくりや」の前の「高岳院」は、江戸時代の地図を見ると広大な敷地を持つ大寺院であった。戦災で焼け、現在は敷地のほとんどを失い、こぢんまりとした寺になっている。
徳川家康の信頼の厚かった忠臣平岩親吉は、家康の八男仙千代を養子として迎えていた。親吉には嗣子が無く、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康が、仙千代を養嗣子として親吉に与えていたのだ。
仙千代は、文禄4年(1595)、於亀の方を母に伏見で生まれた。於亀の方と4歳まで伏見で暮らしたが、慶長4年(1599)に大坂に移り、翌年わずか6歳で早逝した。平岩親吉は、その所領のあった甲斐の国の教安寺を菩提寺として仙千代を弔った。
慶長8年(1603)、平岩親吉は、今度は家康の九男にあたる徳川義直の後見人として、義直を養育することになる。そして義直が、慶長11年(1606)尾張徳川氏を継ぐと、親吉も義直付の家老として尾張に移り、犬山に12万石を領した。
その際、仙千代の菩提寺を清洲に移している。さらに慶長16年(1611)の清洲越しで現在地に移転し、仙千代の法名「高岳院殿」にちなみ寺名を「高岳院」と改めた。しかし、平岩親吉もこの年の暮れに亡くなり、「平田院」に葬られた。法名「平田院殿越翁休岳大居士」。平岩氏は親吉の死をもって断絶してしまうが、そのゆかりの「高岳院」「平田院」は、尾張藩により厚く保護されている。「高岳院」の山門は、清洲城黒門を移築したもので戦前には国宝に指定されていたが、戦災で焼失した。

現在の高岳院の門。かっての清洲城の黒門は戦災で焼失。

本堂の脇に祠と立派な宝筐印塔。由来を聞くことができなかった。

江戸時代の地図では、「高岳院」の寺領は広大である。図の一番右中央の赤い印の寺が「平田院」である。

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