江戸時代の地図と昭和8年頃の住宅地図を見ていて気付くことがいくつかある。富士塚町筋は南北の通りで、西の下堅杉町筋、東は高岳町筋の真ん中を通っている。
江戸時代は、富士神社は「富士権現」と記載されている。周囲は武家屋敷である。恐らく、もともとは、富士神社が鎮座していて、その周囲に武家屋敷地が広がったものであろう。名古屋築城の際に、神社が巾下に移転しても、神域の杜は残り、周辺に武家屋敷が建てられていく中で、再度、「富士権現」として勧請されたのであろう。
ところで、昭和の地図に、富士神社の西に「松波病院」が記されている。私事であるが、私の主治医で、三の丸病院の松波医師の病院である。病院の方は、現在、奥さんが取り仕切っている。開業して104年になるという古い病院である。ただ、戦災にあい、昔のものは何も残っていないという。松波医師によれば、古い顕微鏡があるぐらいだそうだ。
富士神社から、富士塚町筋を北に行くと、「椙山第一高等女学校」がある。「椙山学園」については、別稿で詳細に取り上げてみようと思うが、東区は、金城・淑徳・椙山の女子校御三家発祥の地なのである。

江戸時代の地図。左下に囲んだところが「富士権現」。その斜め右上の広大な区域を占めているのが「高岳院」である。

昭和の初めの地図。中央の下に「富士神社」。その西に「松波病院」。「富士神社」から「富士塚通り」を北に行くと道を挟んで「椙山第一高等女学校」と「椙山第一女学校裁縫部」がある。

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