山吹小学校の南側のフェンスのところに名古屋市教育委員会の建てた「石黒道玄・済庵父子宅址」という史跡の標識がある。(しかし、“道玄”は“通玄”の間違いのようである。旧版「名古屋市史」では、“通玄”と表記されている。)
石黒通玄・済庵父子は、ともに尾張藩の藩医である。息子の済庵は、本草学(薬草学・漢方医学)に長ずるとともに、蘭法医(西洋医学)としても名高く、尾張で初めて、腑分け(人体解剖)を行ったことで知られる。
東別院(真宗東本願寺別院)の北側は、江戸時代には千本松原と呼ばれる処刑場であった。現在の橘公園のあたりである。公園の入り口に「おためし場・腑分けの跡」という標識がある。この場所で罪人を試し切りにし、新刀の切れ味を確認したのである。また石黒済庵による処刑された罪人の腑分けもここで行われた。
文政4年(1821)石黒済庵は、尾張藩に腑分けの許可を得て、名古屋で初めての解剖を行った。当日は吉雄俊蔵をはじめとする医者を中心に60人ほどの見学者が集まり、蘭書解剖図と比較しその正確さを認識したという。
遡ること明和8年(1771)江戸小塚原で、前野良沢・杉田玄白らが、日本で最初の腑分けを行ってより50年後のことである。前野良沢らは、3年後の安永3年(1774)に蘭書『ターヘル・アナトミア』を苦心の末翻訳し、『解体新書』として出版した。これが日本の蘭学研究の端緒となった。

「石黒道玄・済庵父子宅址」の案内標識。背景は山吹小学校。

「おためし場・腑分けの跡」の案内標識。東別院の北にある橘公園。

今は、何の変哲もない公園です。

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