大光寺の門前に「
俳聖井上士朗宅址」の石碑が建てられている。
井上士朗は、江戸期の俳人で寛保2年(1742)に尾張春日井郡守山(現名古屋市守山)で生まれた。少年時、名古屋の医者で叔父の井上安清の養子となり家業を継いだ。通称正春、医者としては
専庵を名乗っている。10代後半ごろより
久村暁台(くむらきょうたい)に師事し俳諧を始める。作品の初見は22歳の時、暁台編『蛙啼集』(宝暦13年(1763)刊)。明和4年(1767)ごろより一門の間に重きをなし、天明の半ばには全国にその存在を知られるようになった。士朗の業績は、高雅にすぎた暁台の句風を、大衆むきに平明化した点にあるといわれる。俳諧のほか、国学を本居宣長、絵画を長崎の勝野茫古、平曲を荻野検校に学び、医者としても城下一の評判があった。俳諧では「
尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に寛政三大家のひとりとして重んじられた。性格が温和で名利を追わず藩医に推されたこともあったが辞退したという。別号に支朗・
朱樹叟(しゅじゅそう)・
枇杷園(びわえん)・松翁(しょうおう)がある。編著は『枇杷園句集』文化元年(1804)刊、『枇杷園句集後集』文化5年刊(1808)刊、『枇杷園随筆』文化7年(1810)刊、『枇杷園七部集』文化8年(1811)刊行。文化9年(1812)、71歳で没している。戒名は松翁幽操居士。
大光寺門前の碑は、昭和11年に建てられ戦災で破壊された。現在の碑は昭和27年に再建されたものである。井上士朗の居宅は、大光寺の南側の一画にあった。天明2年(1782)の大火で貞祖院も建中寺も焼けていることは「貞祖院縁起」に記したが、士朗の住んでいた鍋屋町も罹災した。大火後の町の再建に際し、士朗は、避難路として大光寺東側に南北に通る道を作り、士朗の医名から「
専庵横町」と呼び名された。
大光寺の本堂前には、昭和40年に建てられた句碑がある。
山里の 月夜を運べ 庭の松
その他の士朗の代表的な句をいくつか紹介する。
何事も なくて春立つ あしたかな
太秦は 竹ばかりなり 夏の月
大蟻の 畳をありく 暑さかな
足軽の かたまつて行く さむさ哉
凩や 日に々々 鴛の美しき

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