11月3日の“歩こう文化のみち”の日に、人力車を引いていただく郡上八幡の田口さんのためにコース案内のマニュアル作りをしている。橦木倶楽部前の、山吹小学校と山吹谷公園は、江戸時代には「山吹谷」として春の終わり頃に山吹の咲きほこる名所であった。山吹の咲く谷をイメージしていただくために、都市センターの広報紙に載った「尾張名所図絵」のPDFファイルを悪戦苦闘してこのブログに貼り付けた。
山吹は、漢名、
棣棠花。山吹小学校も旧名は
棣棠小学校であった。芭蕉の句に
ほろほろと 山吹散るか 滝の音
がある。
都市センター広報紙には次のような解説がある。
山吹の谷のことを尾張名所図会は『いまもなお、山吹のところどころにのこれるは、昔の面影ぞかし』と記しており、幕末に尾張名所図会が描かれたときは、すでに山吹谷は武家屋敷町でした。周辺は今でも高低のある地形で、山吹谷公園の東側はゆるやかな坂となっています。当時は今より起伏に富み、谷には清水が流れ、雑木の間に山吹が多く、春の終わり頃、一面山吹が咲いたことから、山吹の谷と呼ばれるようになりました。当時、山吹谷は春の終わる頃になると、人々がお酒やご馳走をもってこの地を訪れ、谷の清流や丘に山吹の咲き乱れる風景を楽しみ、うたいおどる行楽の地。この尾張名所図会はその酒宴の様子を描いたものです。
この山吹谷の地に、大正13年、名古屋市立第三高等女学校が、名古屋市立第ニ高等小学校を仮校舎として開校した。昭和20年空襲で全焼したあと、昭和23年、新制高校発足とともに古出来町に移転し、旭丘高校となった。跡地は、現在の山吹谷公園である。


0