2008/10/7

1日目:C島原の乱の一揆軍が最後に立て籠もった城「原城跡」  ♨長崎 雲仙観光ホテルと島原・長崎の旅2008.09

島原観光のメイン。
島原の乱の一揆軍が最後に立て籠もった城「原城跡(はらじょうせき)」。
天守閣などありませんが、広い敷地がそのままに残っています。

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住所:長崎県南島原市南有馬町乙 地図はこちら
原城本丸跡まで、島原鉄道バス「南有馬小学校前」より徒歩15分
無料駐車場 20台

国指定史跡「原城跡」とは: おおむね南島原市と長崎新聞社のサイトより
昭和13年5月30日、国の史跡文化財に指定
明応5(1496)年、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であった。
晴純の代に至り、有馬氏の全盛時代となったが、次第に衰退、義直時代には、
佐賀の龍造寺により再三侵略されたが、島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、
島原半島の南部をかろうじて維持できた。
有馬晴信が慶長17(1612)年に岡本大八事件に連座し配流・切腹となり、
子直純が再度有馬の地をおさめたが、2年後日向に転封となった。
その後、元和2(1616)年大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となった。
寛永14(1637)年、この廃城となっていた原城に一揆が籠城した。世にいう「島原の乱」である。

当時、徳川幕府の禁教令(1616年)でキリシタン弾圧が強まっており島原半島も例外ではなかった。キリシタン大名・有馬氏が衰退した後、島原領主となった松倉重政、勝家父子は、領民を使役や重税で苦しめ、年貢を払えない者やキリシタンは容赦なく拷問にかけ殺した。
圧政に対する領民の不満と怒りが頂点に達した中で、「島原の乱」は起きた。
半島には既に宣教師はいなかったが、キリシタンの「救世主」として担ぎ出された天草四郎が合流し一揆軍は結束。
いったん棄教した人も復帰し、1637年12月廃城となっていた原城に立てこもった。
幕府側は約12万人の兵力を動員して鎮圧に動き、88日間に及ぶ籠城の末、落城。
一揆軍は女性、子どもも含めほぼ皆殺しにされた。その数3万7千人。

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十字架の近くには天草四郎の墓がある
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眺めが素晴らしい 天気がいい日は天草が良く見えるそうです
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天守閣があった場所
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石垣

何の説明もないまま公園のような敷地を見ていると、
ガイドさんが話しかけてきてくれました。そのおかげで色々わかりました。

原城の石垣は、代わりに築城された島原城の用材として運ばれたようですが、
一部残っています。
最近の発掘調査(調査は既に終了)で、乱後、幕府が埋めた石垣が出てきました。
その他、ロザミオや人骨も
人骨がまとまって出てきた場所はなんとなく写真を撮る気になれませんでしたよ。
出土した遺物は原城跡近くにある原城文化センターで展示。

原城文化センター http://www.nagasaki-tabinet.com/conv/guide/serch/3shi/hall/harajou.html

住所:長崎県南島原市南有馬町乙1374
TEL:0957-85-3217
開館時間:9:00〜17:00 見学自由
休館日:毎週月曜日

島原の乱のあと、天草・島原地域には領民がいなくなりました。
ほとんどキリシタンだったから。
そこで全国各地から多くの移民が島原に入りましたが、
その中でも小豆島からが多かったようです。
だから島原はそうめんが有名なんですよ。

さて、天草四郎率いる一揆軍がこの原城に来る前はどこにいたのかというと、
熊本県の天草にある富岡城にいた。
一揆軍は富岡城を3回攻撃したが攻め落とせず、天草四郎は島原に渡り、
そこで原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流した。

その富岡城にもこの旅行の2日目に訪問しています。
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