マルクス主義文献の電子化を始めて、来年は20周年となる。その論理、歴史観、多くの先人を魅了しただけのことはある。小生も嵌った。だが、同時に、国民文庫の多数を読むにしたがって、「どうしようもなく重要な前提の上」での話だと気づいたのは、20年前だったか。それは、その「前提」のほうに信念を持つ人間としては、マルクス主義を信念とすることは不可能なのである。
マルクス主義は、その前提を規定するものを問題にする。だが、これは相補的なものだ。「存在が意識を規定する」というド・イデのテーゼは、当時の「意識が存在を規定する」という観念論へのアンチ・テーゼに過ぎない。ジンテーゼは、相補性にあろう。だが、マルクスはわずかしかそれを明示しなかった。まあいいや。
で、なんでそんな自分の信念でもないものを電子化するのか? それは、マルクス主義は大衆に消尽され尽くされるだけの価値のある考えだと思うからである。
マルクスやらレーニンの本を買う人の多くは、恐らく信念の人だろう。だけど、彼らだけが目通ししやすい環境にあるとすれば、本来読まれるべき人(=<生>の大衆@ネグリ)には読まれないようになるのではないか? それは余りにも勿体ない! 何よりマルクスやエンゲルスの罵トリックは面白い! 20世紀を良い意味でも悪い意味でも呪縛したマルクス主義というものは、もっと広く眼に触れられるようにするべきだ! 勿論、マルクス主義には今でも生きているところはあると思うしぃ(ちょっと弱気)。20世紀は間違いなく、マルクス主義の世紀だったのである。その世紀を生きた人間の思いと願いと絶望が込められているのだ。
インターネットというものが大衆化した今、過去の歴史的遺産は広くネットなどで見られるようにすべきだと思う。その一環である。マルクス主義に続く、あるいは乗り越える大衆のために。

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