『安田講堂 1968―1969』(島泰三著、中央公論新社)
日本において、ルールに異議を申し立てたりするとき、権力者の都合に抵触すれば、都合が優先される。異議申し立て者は巧みに欺瞞されるのが常だ。たらいまわしされたり、権力者やその代行者は一切責任を取らなかったり、無理難題を申し立て者に吹っかけ、ボールを投げ返したり。
要は、社会全体を覆うべき民主主義の仕組みがない、ということである。だから、日本社会は本質的に民主主義社会ではあり得ない。
さて、インターン制という気違いじみたルールが医療界にはあり、それへの異議申し立てということが安田講堂占拠の発端であったことが描かれており、欺瞞ルールの秀才どもの東大官僚のみならず、日本の医学界は大きめの体重を乗せて異議申し立てを欺瞞し、潰しに来た。他の学部生も東大および日本――彼らは文句なく将来の日本の柱石を支えるのだから――という欺瞞に自らの未来の幻滅すべき姿を見出し、闘いに立ち上がる。
一方、マスプロ教育という資本主義の権化のような日本大学では、授業料の使途不明という、当然怒り、異議申し立てすべきことに関してさえ異議申し立ては文字通りのむき出しの物理的暴力で圧殺されてきたが(死人まで出ているのだ)、しかし、ついに全学総決起という姿を取る。それは文字通り、はじめから体を張った闘いであった。秋田明大、芸闘委という英雄を生む。
さて、この大いに異なる二つの大学に象徴される闘争は、他の大学も動かし、総叛乱の様相を持つ。いや、大学だけではない、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争という、今、そこにある人殺しに大衆は怒っていた。そして、出撃拠点の一つであり、人殺しの道具に使われていることを恥とも思わない祖国日本の政府にも。この本は、冒頭から最後まで、徹底した祖国愛に貫かれている。祖国を貶める国家への怒り、それが真っ当な日本左翼に通底するビートなのだ。そのビートの危うさを知るから、彼らは滅多に口外しないだけだ。
異議申し立てのルールが欺瞞されたり、暴力で潰される場合、対抗手段は権力者にとって都合の良い民主主義のルールの中ではあり得ない。民主主義を成立させるものは、民主主義の外部にしかないのである。彼らは、それを体得した。そして、その時代の若者の多くも、体得した。全共闘とは、多分そういうことである。だから「大学解体」などの、庶民には破壊的スローガンが目立つのだ。だが、それは東大闘争の経過が示すように、切ないほどの民主主義への希求の果てのことなのだ。当時の権力者たちにとっては、(日本の)民主主義や若者たちの異議申し立ての意味など、どうでもよかったのだろう。戦争で一番苦しい目に遭った世代(昭和元年生まれ前後)が本当の意味で権力者として、世を治めるのは、もう少し先のことである。しかし、その世代も、日本の無責任をついに変えることは出来なかった。この課題は、我々の世代(昭和40年生まれ)の課題でもある。世間で大人と言われる歳になった今、ささやかながらでもこの日本的欺瞞・無責任を変えることが出来るだろうか? 加藤総長代行や近年の安部英は未来の自分かも知れないのだ。
それから。やっぱり、マルクス主義などを上から振りかざす連中(ここでは共産党)はダメだ。自分たちがヘゲモニーを握れなければ、運動に敵対するという彼らの独善的な性質は、この本でもよく分かった。同時に、やっぱり、共産党が一番手強い(何が?)こともわかった。マルクス主義を振りかざす連中、これとどう闘うかも多分我々の課題だろう。
他の党派はどうであったのか、この本では書かれていないが、偉そうではなかったので悪い印象はこの本ではない。で、佐々(笑)。彼の矮小さは日テレでいつも見ているが、再確認。

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