TAMO2ちんの日常

思想の嵐 猛(たけ)るとも 正しき道を いざ進め 

 

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続4 投降に慣れず、だぶって投稿しているかもしれません。これで終りにします。
https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
最近、pdfの文書で「144454655.pdf-core 文化大革命在日本 その衝撃と波紋(下)――馬場公彦」という論文を読み、その背景に目を通し、あまりの複雑さと重さに浅はかな当時の自分を思い知らされています。しかし、やはり私は、華青闘7.7告発には、否、というしかない。あそこからは憎悪しか生まれないのではないか。
李さんは晩年に至るまで、やはり、あの華青闘7.7告発について、当時と同じ思いだったのでしょうか?
もう亡くなっていらっしゃって今更ですが、失われた50年前の友情は今も私の中で行き場がなく、時々吹き出してきます。最後の別れ際、見知らぬ者を見るような目で私を横目でちらと見て行った李さんの姿が、今も目の裏に残っています。
華青闘7.7について、李さんが晩年におっしゃっていた事があれば、教えて頂ければ嬉しいです。また、1990年頃新聞記事でみかけたのですが、李さんが裏方になって開かれた「冷戦後のアジア・太平洋地域と両岸関係」というタイトルの東京国際フォーラムについて、何かご存じでしたら、教えて頂けると嬉しいです。
https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox にお願いします。


https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
続き3  https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
ここからは、個人的なことなので、公開部分には入れないで下さい。大坂仰山党の同志の方が故李讃輝さんとお話になった事があるとうかがいましたのでお聞きしたいと思いました。
私は李さんの高校時代の後輩で、高校時代より3〜4年交流がありました。いろいろ教えていただいたり、大学時代は互いの大学での活動(私はいわゆるセクトではなく学内で作られた学科共闘会議のグループといっしょにやっておりました)についての話とか、善隣会館に李さんを訪ねたり、上智大全共闘を訪ねたり、李さんが上智大でやばくなってきたので神戸にしばらく身を隠す、とかで東京駅の新幹線ホームまで見送りに行ったことも。お互い大学闘争のさなかでしたが、たわいなくも牧歌的なしかし、確かにお互いに友人として信頼しあえていたと思う数年でした。
入管闘争に入ると、李さんのまとっている空気が変わっていくのがわかりました。1970年の何月頃か、いわゆる華青闘7.7について、その少し前頃に李さんから華青闘の思い(新左翼に対する華青闘の考え)を聞かされ、華青闘の機関紙「海燕」の創刊号を読ませて頂き、巻頭にあった紙名の由来であるゴーリキーの詩「海燕の歌」についても教えて頂きました。
結局私は納得できませんでした。華青闘の立場からすれば私は敵認定されたのでしょう。決裂するしかありませんでした。白を黒とは言えない。
先にも述べましたが、華青闘7.7については2つに分けて考えるべき問題があり、
1つめは当時その事について情報があまりなかったのでよく分かりませんでしたが、あなたのブログのどこかの記述にもあるように中共・日共・台湾国民政府・その他が入り乱れるという相当のものが有ったのですね。それに反発する華青闘の気持ちは頷けます。しかし、2つめに関しては、受け入れがたいものでした。それは私が日本人だからではない。
どう考えても、『民族』という括りで考えるべきじゃない、としか思えませんでした。しかしその当時21歳の私はその考えをうまく言語化することができず(何よりも李さんは先輩で先生みたいなものでしたしね)、決裂に至りました。それ以来、50年間お会いする事はありませんでした。痛い決裂でした。


https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
続き2  https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
華青闘7.7告発について。
華青闘7.7告発については2つに分けて考えるべき問題だと思います。
1つは前衛を自認する党派の党派主義にたいする批判。党派が当事者の事を理解するよりも、当事者を利用して勢力を拡大する、ということしか考えてない。
大学闘争も当初は主にノンセクトが個別の課題を闘って始まり、セクトがそれに便乗?して勢力拡大の狩場にしようとした。それは日共から始まり組織というものの伝統といっていいほど。労働運動でさえそういう話をよく聞きました。ほとんどのセクトにそういう傾向があったのではと思います。
2つめは華青闘代表の言にある【抑圧民族としての日本の諸君!〜〜】という言葉に表された考え方。抑圧者と被抑圧者というのはいるのだろう。しかしはたして 民族として 抑圧民族 被抑圧民族 というものは本当にあるのだろうか? それはそうしたほうが都合の良い者たちが引いた線なのではないか。そんなものはないのに、私たちはそのどちらかに帰属させられている。


https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
1 https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
劉彩品女史(当時東京大学理学部大学院生)について、こんなサイトを発見しましたので。できれば全文を読まれると参考になるのではないでしょうか。
http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2001/arujyosei.html
一部抜粋=【 それから二五年が過ぎた一九九六年、思いがけないことに私は劉彩品と新聞紙上で「再会」した。中国へ行って後、彼女は南京・紫金山天文台の教授を務める傍ら、八三年以降三期にわたって全国人民代表会議(全人代)台湾省代表一三人のうちのひとりだったという。
だが、九六年三月に開かれた全人代には出席しなかった。その心境を大要次のように朝日新聞に語った(一九九六年三月二二日付)。
「台湾近海でのミサイル試射・実弾射撃訓練は明白な軍事威嚇であり反対だが、最近は全人代で李鵬首相などに何を言っても聞いてもらえず、無力感をおぼえる。
背景には、共産党指導部が台湾の民心を理解していないことや天安門事件の武力鎮圧が成功だったと考えていることにある。
また、人民解放軍の地位の誇示とか共産党内部での権力争いも関わっていると思う。台湾の人たちは『怖くない』と言っているが、やはり怖いに違いない。その心情を思うとたまらない気持ちだ。
中国は、なぜ台湾で『独立』の声が強くなったかを考えるべきだ。私が中国へ行った一九七一年当時とはイメージが変わり、周恩来首相などにあった原則が弱まり、大国主義的な傾向が強くなっていると思う」。
 劉は当然にも苦い気持ちをこめて、これらの言葉を発したにちがいない。一方には、「台湾省」を含めた中国蹂躙の歴史を辿った日本帝国主義と「その奴隷となり走狗となった」国民党政府を批判し、「中華人民共和国万歳!」と叫ぶ二五年前の劉彩品がいる。
他方には、全人代代表として、「出身省」である台湾の民意に無理解をきわめる共産党指導部に対する絶望感と台湾民衆に対する深い思いを吐露する二五年後の劉がいる。】
劉彩品女史については以上です。



https://mail.google.com/mail/u/1/?pli=1#inbox
続き4
最近、pdfの文書で「144454655.pdf-core 文化大革命在日本 その衝撃と波紋(下)――馬場公彦」という論文を読み、その背景に目を通し、あまりの複雑さと重さに浅はかな当時の自分を思い知らされています。しかし、やはり私は、華青闘7.7告発には、否、というしかない。あそこからは憎悪しか生まれないのではないか。
李さんは晩年に至るまで、やはり、あの華青闘7.7告発について、当時と同じ思いだったのでしょうか?
もう亡くなっていらっしゃって今更ですが、失われた50年前の友情は今も私の中で行き場がなく、時々吹き出してきます。最後の別れ際、見知らぬ者を見るような目で私を横目でちらと見て行った李さんの姿が、今も目の裏に残っています。
華青闘7.7について、李さんが晩年におっしゃっていた事があれば、教えて頂ければ嬉しいです。また、1990年頃新聞記事でみかけたのですが、李さんが裏方になって開かれた「冷戦後のアジア・太平洋地域と両岸関係」というタイトルの東京国際フォーラムについて、何かご存じでしたら、教えて頂けると嬉しいです。
qiyur686@gmail.com にお願いします。


https://mail.google.com/mail/u/1/#inbox
続き3
ここからは、個人的なことなので、公開部分には入れないで下さい。大坂仰山党の同志の方が故李讃輝さんとお話になった事があるとうかがいましたのでお聞きしたいと思いました。
私は李さんの高校時代の後輩で、高校時代より3〜4年交流がありました。いろいろ教えていただいたり、大学時代は互いの大学での活動(私はいわゆるセクトではなく学内で作られた学科共闘会議のグループといっしょにやっておりました)についての話とか、善隣会館に李さんを訪ねたり、上智大全共闘を訪ねたり、李さんが上智大でやばくなってきたので神戸にしばらく身を隠す、とかで東京駅の新幹線ホームまで見送りに行ったことも。お互い大学闘争のさなかでしたが、たわいなくも牧歌的なしかし、確かにお互いに友人として信頼しあえていたと思う数年でした。
入管闘争に入ると、李さんのまとっている空気が変わっていくのがわかりました。1970年の何月頃か、いわゆる華青闘7.7について、その少し前頃に李さんから華青闘の思い(新左翼に対する華青闘の考え)を聞かされ、華青闘の機関紙「海燕」の創刊号を読ませて頂き、巻頭にあった紙名の由来であるゴーリキーの詩についても教えて頂きました。
結局私は納得できませんでした。華青闘の立場からすれば私は敵認定されたのでしょう。決裂するしかありませんでした。白を黒とは言えない。
先にも述べましたが、華青闘7.7については2つに分けて考えるべき問題があり、
1つめは当時その事について情報があまりなかったのでよく分かりませんでしたが、あなたのブログのどこかの記述にもあるように中共・日共・台湾国民政府・その他が入り乱れるという相当のものが有ったのですね。それに反発する華青闘の気持ちは頷けます。しかし、2つめに関しては、受け入れがたいものでした。それは私が日本人だからではない。
どう考えても、『民族』という括りで考えるべきじゃない、としか思えませんでした。しかしその当時21歳の私はその考えをうまく言語化することができず(何よりも李さんは先輩で先生みたいなものでしたしね)、決裂に至りました。それ以来、50年間お会いする事はありませんでした。痛い決裂でした。


https://mail.google.com/mail/u/1/#inbox
続き2
華青闘7.7告発について。
華青闘7.7告発については2つに分けて考えるべき問題だと思います。
1つは前衛を自認する党派の党派主義にたいする批判。党派が当事者の事を理解するよりも、当事者を利用して勢力を拡大する、ということしか考えてない。
大学闘争も当初は主にノンセクトが個別の課題を闘って始まり、セクトがそれに便乗?して勢力拡大の狩場にしようとした。それは日共から始まり組織というものの伝統といっていいほど。労働運動でさえそういう話をよく聞きました。ほとんどのセクトにそういう傾向があったのではと思います。
2つめは華青闘代表の言にある【抑圧民族としての日本の諸君!〜〜】という言葉に表された考え方。抑圧者と被抑圧者というのはいるのだろう。しかしはたして 民族として 抑圧民族 被抑圧民族 というものは本当にあるのだろうか? それはそうしたほうが都合の良い者たちが引いた線なのではないか。そんなものはないのに、私たちはそのどちらかに帰属させられている。


https://mail.google.com/mail/u/1/#inbox
1
劉彩品女史(当時東京大学理学部大学院生)について、こんなサイトを発見しましたので。できれば全文を読まれると参考になるのではないでしょうか。
(http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2001/arujyosei.html)
一部抜粋=【 それから二五年が過ぎた一九九六年、思いがけないことに私は劉彩品と新聞紙上で「再会」した。中国へ行って後、彼女は南京・紫金山天文台の教授を務める傍ら、八三年以降三期にわたって全国人民代表会議(全人代)台湾省代表一三人のうちのひとりだったという。
だが、九六年三月に開かれた全人代には出席しなかった。その心境を大要次のように朝日新聞に語った(一九九六年三月二二日付)。
「台湾近海でのミサイル試射・実弾射撃訓練は明白な軍事威嚇であり反対だが、最近は全人代で李鵬首相などに何を言っても聞いてもらえず、無力感をおぼえる。
背景には、共産党指導部が台湾の民心を理解していないことや天安門事件の武力鎮圧が成功だったと考えていることにある。
また、人民解放軍の地位の誇示とか共産党内部での権力争いも関わっていると思う。台湾の人たちは『怖くない』と言っているが、やはり怖いに違いない。その心情を思うとたまらない気持ちだ。
中国は、なぜ台湾で『独立』の声が強くなったかを考えるべきだ。私が中国へ行った一九七一年当時とはイメージが変わり、周恩来首相などにあった原則が弱まり、大国主義的な傾向が強くなっていると思う」。
 劉は当然にも苦い気持ちをこめて、これらの言葉を発したにちがいない。一方には、「台湾省」を含めた中国蹂躙の歴史を辿った日本帝国主義と「その奴隷となり走狗となった」国民党政府を批判し、「中華人民共和国万歳!」と叫ぶ二五年前の劉彩品がいる。
他方には、全人代代表として、「出身省」である台湾の民意に無理解をきわめる共産党指導部に対する絶望感と台湾民衆に対する深い思いを吐露する二五年後の劉がいる。】
劉彩品女史については以上です。



https://mail.google.com/mail/u/1/#inbox
投稿者:トテトテトテ 
>それを防ぐには、ある一つの立場に偶然で任せる「くじ引き」が有効
そう思います。見た目は必然的に見えてそのじつ偶然に満ちたつながりでしかない因果連関を正に必然的なものに見せかけている錯覚から解放されるためには、勝者もなければ敗者も本当はないのだという「蜘蛛の巣からの解放」(ニーチェ)を伴うものでない限り、無理だと思われます。

ところが「蜘蛛の巣」を作っているのは「われわれ蜘蛛」自身だとニーチェはいいます。安住していたい気持ちがどこかにあるというわけです。フロムのいうように。

その態度が超克されない限り、プロレタリア独裁に限らず、どのような形態の独裁であっても出現可能性はいつどこにでもあるに違いないと思っています。しかし繰り返される「くじ引き」はその点、独裁のばからしさをその都度見せつけてくれるだろうし、フロムの警告を常に頭から取り逃がさない装置として有効にはたらくのでは、と期待しています。

公正であろうとすればするほど生まれる「距離」とその恐怖感というのは、勝者/敗者という古くさい二元論から脱却するための試金石として必須であると考えています。そうでないと、せっかくのフロムの警告も意味をなさなくなるでしょう。「勝利者の誰ひとりとして偶然を信ずるものはいない」(ニーチェ)。ゆえに勝利などは逆に「偶然に過ぎない」という事実を何度も繰り返し見せつける効用を「くじ引き」は持っていると思っているのですが。
>プロレタリアートの独裁の可能性は、「くじ引き」で担保される
その点は否定できないと思います。十分に練り直さなくてはいけないと思っている点です。
投稿者:TAMO2
タマ様:
マルクス主義の図式に引きつけて書きますね。

プロレタリアートの独裁の可能性は、「くじ引き」で担保されると考えています。

レーニンらが考えたよりも、プロレタリアートの内部は多様で、その中で「代表」やら「指令部」を決定するには、選挙選出による「勝者」という構図を消さなければ、容易にプロレタリアートへの独裁に転化することは、もう、歴史が証明していることだと思います。それを防ぐには、ある一つの立場に偶然で任せる「くじ引き」が有効だと思います。

勿論、くじ引き前には、絞り込みのための選挙が必要と思います。
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