『最後の親鸞』(吉本隆明著、筑摩書房)
若い頃、読んで、反発を覚えて途中で読むのを辞めた本。反発を覚えた理由は、吉本氏の言う「悪」が、余りにも世俗的価値観による捉え方によっていたところにある。親鸞の言う「悪」は、哲学的に言うなれば「存在論的悪」である。人間は何をしていても「悪」なのだ。他の生命を犠牲にしなければ生きていけない。受験で勝てば誰かが落ちる。運転中、対向車の右折のために停車したら、後にいる乗用車内の急患患者が死ぬかも。
この認識の差異により、正直、今回の読書でも著者の言うことがすっと入ってこない部分が多数あった。だが、それとは別に、人間の知的営為と信仰の問題について、実に興味深い議論であり、楽しめた。
人間は、理性と知性をフル回転して、ある体系を理解しようとする。仏教では、それによって解脱に近づこうとする考えがある。(自力本願。) だが、人間は忘れる。そもそも、理解できる頭脳を持って生まれてくるとは限らない。では、徹底的にハードな修業。そんな強い肉体と根性があるとは思えない。(両方とも本質でないことは菩提樹の悟りに至る道で明白である。)さて。弥陀の誓願によれば、一切衆生を救うとある。したらば、そんな奴らでも救われるには何が条件となるか。小生の理解では「気づいてしまう」ことである。絶対他力はそういうことである。では、何に? それは最後に。
「序」で筆者の問題意識が語られる。息吹を持った親鸞の実像、特にその晩年はいかなるものであったか? 巨大な知性とその財産を持ちつつ、それを存命中は明らかにせず、同時に『教行信証』を著した親鸞。絶対他力を極限にまで進めた親鸞。そこでは知を「捨てる」ことが余儀なくされる。いかにしてそこに辿りついたのか。そしてその構造は、あらゆる知に付きまとう作業でもある。
「最後の親鸞」では、最後に親鸞が辿りついた境地を知るには『歎異抄』や『末燈鈔』を入念に辿るしかないという。ただ、それだけでは最後の親鸞には辿りつけまいと著者は言う。知の頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することが<知>の最後の課題であり、最後の親鸞の境地だったのではと著者は言う。智者にとって愚は近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。<無智>と<非知>は紙一重違う。<無智>な人を、否、<無智>であるがゆえに救われるべしというのが弥陀の誓願である。だが、<無智>な人にとってはそんな誓願は関係ねえ!の世界の人なのだ。宗教からはみ出した人を、救うという誓願。ペテンや欺瞞と人は言うだろう。また、そうであるならば、信心は無用とも言えよう。そして世俗に留まることを欲しつつも、生病老死、圧倒的に迫ってくる現実は、私を追いつめる。その時、人は宗教などの超越的で絶対的なモノを欲するであろう。人が飢え死ぬ時、世俗的には念仏は無力である。だが、いよいよ死を自覚した時、念仏のみしかないのではないか(p018あたり)。小生と著者の波長は微妙に合わない。ともあれ、親鸞もまた無力感にさいなまれたことであろう。人が飢え死ぬ。聖道の慈悲で飢餓と闘ったり、一緒に悲しむ=引き受けることとなろうが、それは際限がなく、多分不首尾に終わろう。(だから、無駄というわけではない。それが出来ることは素晴らしいことだ。)ならば救済は、称名念仏の道だけではなかろうか。死を参照項に、<彼岸>へ往き、悟りをもって<此岸>に還ること。これは一体何を意味するのだろうか。また、ご同朋の唯円が「念仏を唱えても余り嬉しくないんです」と言われ、親鸞は「君もそうか、俺もやねん、それは煩悩に充ちた凡夫の印だよね」とぶっちゃけ、そこで弥陀の誓願を出し、「だからこそ、弥陀の誓願で往生できると思うねん、むしろ、歓喜の心がわいたら、『君には煩悩ないんちゃうか』とお釈迦様は思わはるんちゃうか」、とぶっちゃける。このように考える宗教は、他には、ないように思う。ここに真宗の凄みがある。だが、この本を貫く一つの疑問、信心は要らんのとちゃうん?というお話が湧いてくる。さて、ここでエンゲルスの自由論っぽいお話。いわゆるリベラリストは以降、読まないように(笑)。親鸞は唯円に「私の言う言葉を信じ、言うことを聞くか」と訊く。唯円は「はいな!」と答える。そして親鸞は「人を殺してみいや、往生間違いない!」と言う。唯円は「私の器量では無理です」と正直に言う。意地悪な親鸞は「全ては機縁なのだ、殺す縁がなければ殺せまい、逆に殺すまいと思っても千人でも殺すことがあろう」と言う。唯円はこのエピソードから「弥陀は計り知れない力で救済される」と言う。なんらかの必然性(不可避性)がなければ人を殺すことはない。不可避の制約の中で<自由>は開かれる。親鸞も、そのような中で「自由に選び取った」。法然上人にだまされて念仏を唱えて地獄に墜ちたとしても、それは「必然」であるのだ、と。念仏以外の道で救われるものならともかく、そんなことが出来ない身としては、地獄は住処であるに決まったこと。これしかないんです、と。
皆様が念仏を信じるも、信じないも皆様にお任せします。
最後は非常に大事。弥陀の誓願は一切衆生を救うということ。信じようが、信じまいが、である。小生は、親鸞はそこまで確信している、それは、極め尽くした知の果てのことと思う。その構造は、親鸞にとって知をもはや必要としないものであったと思う。筆者はそれを<信心>そのものの解体と言う。(ちょっと理路は違うが。)個々人の自力を否定すれば、そうならざるを得まい。(だが。それも最後に。)親鸞のこの気づきについて法然との出会い、六角堂の百日修業と夢告で語られる。なお、法然と親鸞の差異は次の点にある。所謂本願埃(ぼこり)などの問題について、法然は師匠として諌める(制誡)。だが、我弟子を取らずの親鸞は、同じことを言っても諌める形を取らなかった。絶対他力を究めればそうなろう。私には「弟子」を救済することも、導くことも出来ないのだ。そして筆者によれば親鸞はその先に行った。弥陀の誓願は、よくよく考えてみると、ただただ親鸞一人のためにある、と。まず、布教なんかは無意味と考えるのだ。そして、絶対他力の持つ絶対性を考えると、争論もまたナンセンスなのだ。そうなると、一般に信じられている「信心」=「非信仰者と区別されるべき心」が解体されていく。最後の親鸞は、信仰をも解体した。知の極北を究め、非知への着地は知の解体となった。
「和讃――親鸞和讃の特異性」では、著者の詩人としての感性が色濃く感じられた。著者によると親鸞の和讃は<非詩>的とのこと。善導の『往生礼讃偈』の影響と。ただ、中世歌謡の流れにある和讃がどうして<非詩>的なのか。親鸞の考えがウェットでなかったためではないか。「厭離穢土、欣求浄土」と言う。だが、<非僧、非俗>は現世を引き受けるしかない。例えば、時宗ではひたすら現世を厭い、早く極楽への転生を願う。だが、親鸞にとってその態度は顛倒(この本ではこの表現はない)である。現世を、悪を厭うのではなく引き受ける。そこに念仏の契機がある。権力の弾圧により余儀なくされた<非僧、非俗>は、信心のありようを昇華させた。肉食妻帯がアリとなったのは、当然の成り行きである。自力で救おう、信心で救おう、そんなことを願っても、そのこと自身では救いはない。解脱もない。それは、あくまで「弥陀の誓願」という「外部」に依るものなのだ。そのような誓願は、親鸞にとってはただ親鸞一人のためなのだ。
「ある親鸞」では、様々な親鸞像が、結局一人の思想者に出会うことになるという。確かに、「野人」にラディカリズムを伝えている姿と、法然の専修念仏義を展開している姿は違う。だが。流刑でリアルな「野人」としての衆生に親鸞は出会った。それにより、<教化>の対象から、<ご同朋>になったのではないか。そうなると、<僧>も、左翼的に言うならば「前衛」たりえなくなったのではないか。こうして、<非僧、非俗>という境地に達したのではないか。こうして、親鸞は法然の射程を超えた。一人の先行者は『今昔物語』の教信。法相宗の優れた学匠だったが、西方浄土を願い、捨て聖となり、妻子をもうけ、だが念仏を怠らなかった。
「親鸞伝説」では、恐らくは他の法然の系譜の僧侶たちから批判されたであろう、親鸞を聖化・正統化するために作られ、集められた話について論じている。面白いのは、土着の様々な信仰について、「捨てる必要は全くない、それぞれに意味と価値があるんだから」という内容のことを説いているところ。自力の慈悲を行えるものは行なえばいいのだ。考えてみれば、筆者の言うように、煩悩具足、罪悪深重であるがゆえに、絶対他力に帰依した親鸞ほど、「伝説」や「聖化」から遠い存在はないはず。「弟子一人取らず」の親鸞が巨大な教団の始祖になったこと――それは言うまでもなく蓮如の時代のことだが――は、人間の営みの業の深さについて考えざるを得ない。
「教理上の親鸞」では、「往相」「還相」の教学、もしくはイメージについて論じている。親鸞にとって死は生の向こう側にあるのではなく、「死はいつも生を遠方から眺望するものであり、人間は生きながら常に死からの眺望を生に繰入れていなければならない」(p153)ものだった。このように、生と死、還相と往相は絡み合っている。だが、これではまだ、縦糸と横糸のように、それぞれは区別可能なように存在している。<信>を「選び取る」ように思ううちは、絶対他力の境地ではない(「横出」という)。我々が何を願おうが、どうしようが、弥陀の誓願はある、そのことに気づいてしまい、<信>じるしかない。それは雷に打たれたパウロ(サウロ)のようなものか。一気に飛び越えて、到ってしまうのだ(「横超」という)。筆者は色々書いているが、そんなに間違った理解じゃないと思う、筆者も小生も。小生は、お寺の教学に依拠しているんだが。さて、そうなると、別に浄土を死後の世界に置くこともない。勿論、この世を実体として考えられる浄土に作りかえることでもない。<信>に気付いた時、救われることに気づくことになるのだが、だからと言って浄土に「ある」わけではなく、もっと言えば「湧き上がる喜び」もない。ここに至り、浄土は正しくバーチャルとして含蓄の中に存在する。
「永遠と現在――親鸞の語録から」では、新約聖書などと対比して命の繋がりについて述べる。新約聖書でイエスは「わが父とは誰ぞ」と言い、信仰の同一性の絶対性を浮かび上がらせる。親鸞は父母への孝養のために念仏を唱えたことはない、と言い、これだけを取れば新約聖書と似た感じである。だが、何故唱えないかと言うと、「一切ノ有情ハミナモテ世々生々ノ父母兄弟」だからである。自分が「ある」ことは、延々と続く血による。そこに親鸞は「永遠」を考えたという。それらは無限に広がる(時間的に、空間的に)のだ。一方、新約聖書では神の属性として「永遠」はある。「神の前に山は動く」。さて。永遠を見据えても、<非僧、非俗>の親鸞は、目の前の現実に向き合うことを課していたであろう。その現実で往相、還相を説くには、「「現在」という象徴にほかならない」路しかなかった。さて。最後の最後に、「信と不信を同一化」云々とあるが、そんなことに拘るのは、真宗大谷派の門徒としては不可解だと思った。
というのは、この本において「お前がどう思おうと、弥陀の誓願はあり、それで救われることは約束されている」ことを知ることが、親鸞の<信>のあり方を示しているからである。小生が思うに、<信>とは、悪などの痛みを知ることである。最初に帰るが、悪は存在論的な意味での悪である。これなくしては生きて行くことが出来ない。喜びは幻のごとくあるが、苦しみはより実在的だ。痛みは現前しなくても人を苦しめる。トラウマというものがある。それゆえに、人は救いを求める。そして、その絶望性故に、救いは彼岸の彼方(「外部」)から来ると考えるのが妥当である。絶対他力はこの点で、徹底的である。巻末で中沢新一が書いたように、これは、信念の「構造」の破壊の書であり、人間の思考の 存在 について、考え抜いた書物である。

3