TAMO2ちんの日常

思想の嵐 猛(たけ)るとも 正しき道を いざ進め 

 

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投稿者:TAMO2
小生の大好きな言葉を一つ書きます。
「国を思ひて 痴となれ 狂となれ」

司馬先生の引用、ありがとうございます。
やっぱり味わい深いですね。

うにほうれんは、、、入ったお店にありませんでした。
投稿者:一時しのぎ
TAMO2さんの先のコメントですが、司馬遼太郎の吉田松陰評と、共通すると思います(以下引用)。

http://www15.ocn.ne.jp/~isaox/all.html

司馬遼太郎『世に棲む日日』
2巻 P199
 思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒(信徒もまた、思想的体質者であろう)が出はじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるにはそれを神体のようにかつぎあげてわめきまわる物狂いの徒が必要なのであり、松蔭の弟子では久坂玄瑞がそういう体質をもっていた。要は体質なのである。松蔭が久坂こそ自分の後継者」とおもっていたのはその体質を見ぬいたからであろう。思想を受容する者は、狂信しなければ思想をうけとめることはできない。

2巻 P243
・・・松蔭は晩年、
 「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」
と、ついに思想の本質を悟るにいたった。思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世をうごかす実体になりうるということを、松蔭は知ったらしい。

3巻 P273
・・・松蔭は、
「思想を純度高くつきつめてゆけば、その行動は狂人にならざるをえない。狂人になることこそ自分の理想だ」
といった人物であったが、桂は現実家で狂人にはならない。

3巻 P154
人間はときに集団としての発狂を欲する動物なのかもしれないが、それにしてもその発狂のための昂奮剤は思想でなければならない。思想というものにこれほどまでの大昂奮を示したものは、日本史上こんにちにいたるまで幕末の長州人集団しか存在しない。それが松蔭の影響によるものか。それとも長州人の固有の精神体質なのか、・・・・

3巻 P175
英雄とはその個人的資質よりも、劇的状況下で劇的役割を演ずる者をいうのである。

それと「うにほうれん」は、広島県民でも知らない方が多いらしいです(以下参照)。

http://hiroshima.moe-nifty.com/blog/2011/11/post-2c6b.html
投稿者:tamo2
高杉晋作は現在・過去・未来、すべての日本史を通じての狂人だ。で、あらゆる革命思想は、歴史の移り変わりで反革命思想になる。彼らの「言ったこと」ではなく「やろうとしたこと」こそが永遠の生命なのだろう。 たぶん、マルクスもそんなことを言っている。
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