(いつ果てるとも知れぬ、あっちこっちにぶれてねじ曲がる話。歴史ってのは、逆説の塊だから、歴史と論理を紡ぐ話は当然、ねじ曲がっていくものだ。)
(初出:2013年2月だったと思う)
あるみさんや屁の突っ張り様に背中を押されて書く。数年前から去年の今頃まで、怖いブローカー殿に脅されて、社会主義や共産主義についての本を書いた。この本、文字通り右も左も馬鹿にして、罵倒したから、ウヨやらサヨやらに媚びなければ名のある先生以外は出版できない状況もあり、現在紙の出版はお蔵入りである。ブローカー殿が電子出版の会社に回してくれて、電子版は世に出たけど。『指導という名の欲望』。
http://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00DI7NAHW/
日本国は天皇の国であるとともに、知識社会においては長らくマルクス主義の国であることが確認できた。是とするにせよ、非とするにせよ、大正時代のある時期から、マルクス主義が中心点であった。今も脱却できたかは、疑わしいと思う。マルクス(主義)の亡霊は、今も論壇を徘徊している。(意外に思われる人も多いと思うが、今読んでいる河原宏氏の本によると、亜細亜太平洋戦争末期においても、政府はこの亡霊におびえていたことが分かる。)
そういう次第で、マルクス主義の思考方法、すなわち広い意味でのイデオロギーは多くの人に受容された。それは反発も含めて、である。正確には思考の前提に組み込まれた。それは歴史、経済、政治など、広く社会科学に関することにおいて組み込まれた。例えばその歴史観、いわゆる唯物史観は以下のとおりであり。
歴史の底には唯物論的な階級闘争があり、それが表層の現象を縛る。生産力の発展により、原始社会、奴隷社会、封建社会、資本主義社会、そして社会主義社会、共産主義社会がやってくる、と。この歴史に関する考えそのもの――現実に展開した、あるいはしている歴史を横において――を強く否定することは多分出来ない。我々は遠い未来のことまで分からないのだから。受容された、前提にされたということは、マルクス主義が多くの人の思考を「縛った」ということである。
とはいえ、歴史をスパッと区分できるものではない。まずは我々が生きる資本主義社会についてみてみよう。資本主義社会の中には、マルクス主義者の言う「封建残滓」が残っているだけではなく、狭い共同体の中には奴隷社会のような出来事がある――社員が過労死する会社なんてそんなものだろう、会社という共同体からは簡単に離脱出来ないからな――。家族を含む地域共同体は色々と姿を変えつつも原始時代からあったものであろう。トロツキーはどこかで言った。「社会の仕組みは急激に変えられても、意識はのろのろとしか変わらない。」そういう次第で、封建時代、あるいはそれ以前から培われた意識は、次の時代に長く持ち越されよう。このようにして、前時代の「遺制」は生き残っていき、場合によっては――資本主義においては、資本制に有利な場合には――利用される。これは過去から現代に至ることの話。繰り返すが、歴史は、画然と区分できるものではない、と言えよう。特に「社会」という、システムのみならず、意識も絡むものの歴史については。
次に未来に目を向けよう。資本主義は、階級の二大分裂の後、労働者が団結の力を持って社会主義を勝ちとるとされる。生産力が発展し、階級抑圧の必要がなくなれば、共産主義社会、というわけだ。――その主要な理路は『ゴータ綱領批判』『エルフルト綱領批判』『国家と革命』にあるというのは、マルクス主義の常識に属する――。
現実はどうか。ベルンシュタインの昔から議論されたこと。労働者階級が闘争によって豊かさを勝ち取れば、革命という血みどろの方策を忌避するということ。現象的には資本主義の枠内での改良を目指すということ。この歴史=法則を誰が否定できようか?
社会主義革命が本当に、民衆の暴力に依拠して起こった場所は、ロシア、中国、ベトナム、キューバなど、数えるほどしかない。これらの場所は、マルクスが予想したような資本主義の爛熟があった場所ではない。爛熟した場所は、多かれ少なかれ、おこぼれに預かった労働者階級が分厚くいて、社会主義革命を阻止した。例えば、革命の一歩手前に行ったドイツを考えよう。社会主義革命理論に忠実だったのは、インテリのローザやリープクネヒト。労働者の叩き上げの人間たちは、エーベルトら右派であった。スパルタクス団は、決して労働者階級の多数ではなかった。
このように書くと、先進国の社会主義革命の不可能性を書いているように見える。だが、少し引いて考えると――理論的な可能性の側に視点を移して考えると――必ずしもそうではない。上に「おこぼれ」と書いた。どんな社会でも、「おこぼれ」を頂戴するには、闘いが必要である。その意味では、階級闘争が全てなのだ。「失うものは鉄鎖のみ、全世界を獲得せよ」という美しい言葉の通り進むのは、「おこぼれ」が期待できないときである。そう、あの、帝政ロシア末期のように。それは、先進国において今や無縁であろうか? ぷちぷちブルブル動揺分子としては、例えば在特会のような、あるいはネオナチのようなものを生み出す絶望というものを見ないわけにはいかない。社会で「正義」とされるものへの、直観的・直情的な拒否表現として彼らはある。これらの「正義」には、確かに付け込む隙がある。欺瞞がある。それへの拒否を通じて、彼らは社会を拒否しているのだ。確かに彼らが過激になればなるほど、余裕のある一般大衆は彼らへの嫌悪感を強めるであろう。だが。冷静に見て、彼らは増えている! 比較的恵まれた大衆による蔑視を彼らは栄養とするであろう。絶望が進行しているということなのだ。
「テロとの闘い」という欺瞞に満ちた言葉がある。理性的に考える人は、テロとの闘いについて、戦闘ではなく、貧困との闘いを考えるであろう。だが、どうして在特会やネオナチにはそういう態度を取らないのか。小生には不思議である――勿論七〇年代以降の、特に新左翼系列における「弱者憑依」の結果であることは知っている、「不思議」というのは皮肉なのだ――。そして、奴らの登場を実力で阻止することは断固として支持するが、それだけではあまりにも不十分であろう。冷静に考えて、人格否定まで行き着くのは、左翼の敵であろう――おっと、誰かのハンドルネームだね――。このブログで、赤木智弘氏を攻撃する社民主義者、リベラルに対して嫌悪感を表したのと同じことである。福島みずほ類とか、佐高信類とか書くのはそういうことである。
「おこぼれ」にありつけることなんか、ほとんど絶望的な派遣労働者をはじめとする下層労働者が増えているからこそ、在特会類が蔓延るのである。そして、彼らが多数派となり、在特会的なプロパガンダと行動では何も解決しないことに気付いた時、革命的暴力の担い手となる可能性を考えることは出来ないだろうか?――出典は今明示できないが、右翼農民の革命性についてレーニンは述べている―― そして「ドイツ女――皇后のこと――を絞め殺せ」これが、ロシア革命初期の一つのスローガンであった。
世界中で進む貧困の拡大。不安定化する経済、無力化する政治。「もう一つ先」を考えると、世界社会主義革命が見えてくるように思える。ここでまた「しかし」。
もし、社会主義革命というものがあったら、次の社会を簡単にでも構想しなくてはなるまい。確かにマルクスのひそみに倣うと、細かい青写真は描けまい。だが、方向だけでも示されなければ、人間は前へ進めまい。かのレーニンは十月革命直前に『さしせまる破局、それとどうたたかうか』を書いた。そういうことが必要なのである。で。様々な可能性が考えられるが、資本主義との比較として、不可能なまでに極端なものを考えよう。そうすれば、様々なことは、資本主義とここで提示される「社会主義」との間に大体位置することになろう。可能なことを挟み撃ちであぶり出すのだ。
以後、マルクス・エンゲルス・レーニンを「不即不離の一体のモノ」として考える。言うまでもなく、マルクス=レーニン主義のことである。マルクスの言葉に「自由な人間の自由な諸連合」というものがある。では、自由とは? エンゲルスの言に従うと「法則を知悉し、それに従うこと」とある。ここで自由は法則に従うこととなり、その法則は科学的に解明されていると措定される。科学的法則の名の下、人間は理性に服属すべしとされる。こうして、経済においては計画経済が正当化される。よく「ソ連は社会主義ではなかった」と言われる。何をおっしゃる。科学的社会主義の論理的帰結としてソ連経済はあったのだ。壮大な計画経済の実験は、壮大な犠牲を齎した上に破たんした。一部市場化などの対策は、ミッチリと組まれた計画経済にヒビを与え、ばらばらに崩壊した。計画経済は最良の場合でも「プログラマーを擁する官僚の独裁に帰着する」ので、民衆にとっては単なる疎外態に過ぎないと今は結論付けられている。そんなものに、人類の未来を託せるのか、と言えば、「俺はそんな社会に住みたくない」としか言いようがない。市場経済以上の経済システムを我々は知らない。だとすれば「資本主義が永続する」ことを前提にすることになるのか。ここでさらに「しかし」。かなり苦い「しかし」。
ソ連の登場は何を齎したか。言うまでもなく社会主義運動、特にコミンテルン系の伸長である。その前に、フォーディズムによる賃金上昇モデルが端緒につき、十九世紀末からの社会主義運動の影響もあり、福祉国家は始まっていた。尤も、福祉国家化は、血税=徴兵を国民に要求した見返りが端緒であったが。戦争で国家に生命を投げ出させるためには、後に残る家族の生活を保障しなくては、誰が忠誠心を示そう? 福祉国家は戦争国家の帰結である。すなわち、戦争国家=福祉国家という等号が成立したのだ。社会主義的政策は、ラッサールの友――ラッサールはマルクスの友――であるビスマルクのドイツ、フェビアン協会が活発だったイギリスで先行したと思う。それは、マルクス主義とは直接関係ない、いわゆる改良主義的なものであった。今では社会民主主義と名付けられようか。それは言うまでもなく資本主義を前提としていたものであった。だが、それでもなお、「社会主義」であったのだ! ソ連の成立は、「純粋な社会主義」が存立し得るという可能性を、正確にはその希望、あるいは幻想を齎した。それは資本家とその国家にとっては悪夢のようなものであった。黄色インターナショナル、あるいは黄色労働組合は、資本家たちの赤色への恐怖を利用し、伸長した。また、ソ連の援助を得た赤色インターナショナルも、赤色労働組合も伸長した。総体として、黄色の、そして赤色の社会主義勢力は伸びた。資本家と国家は彼らと妥協せざるを得なかった。そのもとで、労働者階級は諸権利を拡充し、プチブル化した。その結果、革命は遠ざかった。ソ連の存在が資本主義の中の先進国の労働者の状態を向上させたのだ。結果として資本主義経済全体が大きくなり、労使ともに豊かさを享受したのだ。間に第二次世界大戦という破滅的事態があり、ソ連の内実が広く知られるということがあったにせよ、だ。こうしてマルクス=レーニン主義の破綻は明らかになり、ソ連崩壊以後、マルクス・レーニン・エンゲルスを「不即不離の一体のモノ」として扱うことは思考停止の代名詞となり、嘲笑の的となった。
ソ連が崩壊したあと、複雑な状況もあり――というのは、戦争国家=福祉国家における国家の負担の大きさが財政赤字を齎し、多くの先進国を苦しめたことと、多国籍企業の力が増大し、彼らが国家を選べるようになったこともあり――、労働者の諸権利は弱められていった。社会主義幻想の崩壊は労働者階級の後退に帰結した。良く、西欧の社民主義は生き残り、南米では社会主義政権が続々と生まれていると言われる。個別ではそうだが、全体として、労働者階級は後退しているのだ。勿論、反撃の一形態として、南米は見なくてはならない。だが、「全体としてどうか」こそが問題なのだ。「純粋な社会主義」の一つの夢が潰えた頃、資本家は多国籍企業という武器を持ち、さらに投資家と姿を変えて国家からのフリーダムを謳歌し、自由主義独特の論理で「貧困を含む社会への責任?そんなの関係ないね」と甘い汁を吸った。
ここでもう明らかであろう。マルクスの資本論、特にその第一巻第八章(もしくは第十章)の労働日が示したように、今や原初的な姿に回帰しようとしつつある資本主義は原初的な悲惨を世界大で齎すことを。労働者階級は階級闘争を進めるしか生きる道はないことを。カウンターとしての社会主義は、その幻想も含めて有効であることを。それは当面、国家をして社会主義の役割を「再び」果たさせることになるであろうことを。
勿論、「純粋な社会主義」は世界大の社会主義であろう。だが、近代国家は互いに排除する中で、言語を中心とする文化によって国民国家として誕生した。社会主義国家群の中で、国家同士が溶解して合一することはついぞなかったところに、世界大の社会主義の実現の難しさがあろう。ここではこの問題を無視し、未来――出来たらちょっと未来――に先送りすることにしよう。
再度。戦争国家(外への排除)=福祉国家(内部の包摂)という本質を有した近代国家において労働者が生きるためには、近代国家は社会主義的方策を採用するしかないのではないだろうか? 多国籍企業化した資本家=投資家と向き合うためには、少なくとも有力な国家同士は、税制などで協定を結ぶしかないのではないか? 労働者階級を含めた我々は当面、市場経済を超えるツールを持たないであろう。このツールは、経済的強者に有利であることは、今や数理経済学で証明されていると言える。ってか、小生如きも世間並以上に資産を有しているので、金持ちが有利であることは実感している(おい)。それはともかく、経済的強者に有利な
ツールを使う場合、国家の統一性を保とうとするならば、経済的弱者に有利な
ルールが大事になるだろう。いや、勿論、労働者階級こそが富を産み出すのであり、彼らが本当には一番の強者だが、立場上は弱者である。国家はオートマトンに存立しようとする本能があると言われる。それに相応しいイデオロギーは、社会主義であろう。なぜならば、それこそが階級対立の厳しさから労働者という立場上の弱者を保護し、国家の破滅を防ぐからだ。またまた「しかし」。
上の節だけを見れば、まるで社会主義の優位性を説いているようだ。上のほうでは否定しているのに。もう一度「現にあった社会主義(国家群)」をけなす。乗用車、ラジオ、テレビ、果てはインターネット。おっと、フェミニストが言っている。電気洗濯機、掃除機。こういうものを社会主義は生んだだろうか? 全て、資本主義の中から生まれたものだ。計画経済は、今あるものを前提に組まれている。新たなるものは、その価値や意味が確定した後に――正確には、「指導者層」が確定した後に――組み込まれる。資本主義が生み出したものの後追いになるか、あるいは「ブルジョア腐敗文化」とレッテルを貼られて、組み込まれない。いずれにせよ、資本主義よりも遅れた社会になるのは必然であった。そして、資本主義における「新しいもの/サービス」は如何にして生まれたのだろう。そして、それはどうして急激に広まったのだろう。生まれたのは、「面白い」と思う心、探究心、興味、そういうものを自由に追求することが可能だったからである。自由主義思想を是認する体制だったからと言ってもいいかも知れない。そして、急速に安価に、大量に流通したのは、主として企業間の競争によって、である。価格は競争を通じて市場原理によって決まる。停滞する社会主義国家を尻目に、第二次世界大戦後の資本主義社会は大いに進展した。市場経済に組み込まれた地域は、特に発展途上国は、大いに発展した。市場経済に組み込まれた所は多くの矛盾を孕みつつも、組み込まれなかったところよりも総じて豊かになった。そしてその運動は今も続いている。そしてまた「しかし」。
二一世紀にはBRICs,ASEANなどの発展がある一方、先進国では貧困が広がっている。グローバリゼーションは先進国の労働者から職を奪い、貧困を齎した。あるいは、労働条件の引き下げに帰結している。共産主義をかなぐり捨てた中国は賃金の上昇と共に、世界の工場としての役割をASEANなどに譲っている。そしてこのことに関して非常に難しい難題が、左翼には突きつけられるだろう。
「先進国の職場はなくなったかも知れませんが、発展途上国の職場は出来ましたぜ? あんた、どっちの立場に立つんですか?(Which Side Are You On?)
この言葉ほど、ペテン的に国際主義を掲げる日本の一国社会主義者を激怒させるものはないであろう。ちなみに、グローバリゼーションは、グローバル採用というものを齎し、優秀な若者は国家を易々と超えて、企業に入る。出来る日本の若者はシリコンバレー、上海、ロンドンを目指す。優秀なインドの若者は東京を目指す。最先端の技術を担う職業においては、今や上の赤字の設問自身が、ナンセンスになる時代なのである。階級矛盾は国家を超えるだけでなく、階級は国家を超える兆候がそこに見える。国家や土地に縛られるのは、いわゆる「普通の人々」と考えられる人々なのだ。最先端の技術を担う職業に就く者を仮に知識労働者とここでは呼ぼう。「普通の人々」を一般労働者と呼ぼう。
知識革命とも言えるIT革命は、一つの世界を作り出そうとたしかにしている。だが、それに乗れる能力のある少数と、そうでない多数の「普通の人々」に世界を分けようとしているようにも見える。新たな分画線は国家ではなく、知識労働者という階層、一般労働者階層になろうとしている。そこでまた「しかし」。
人間を育むものは何か。家族であり、地域であり、学校である。学校はたいていの場合、国家に規定される。かつて知識において牧歌的であった時代、国家を支える「普通の人々」を育てるために地域の学校はあった。その中の特に能力のある生徒が、高等教育を受けるような仕組みになっていた。旧制高校や帝大では言葉の正確な意味でのエリート教育があった。今はない。旧帝大の卒業生が言うから間違いない。それはともかく。一般労働者も大学を出、本来は一般労働者と混じっていた、その中の特に能力のある者は、博士課程や研究者の道に進み、知識労働者となる。彼らは研究所であれ、企業であれ、国境を超える。彼らは仕事仲間で階層を作る。まるで国家から解き放たれたように。だが、それでもやはり、彼らを育んだものは家族であり、地域であり、国家なのだ。その意味では、根っこは「普通の人々」と変わらない。これは、企業が国家の枠に守られて育まれた後――あるいはレーニンの『帝国主義論』を思い出してもいいだろう、国家と癒着して大きくなった後――、多国籍企業と化して国家の枠を離脱しているように見えることと似てはいないだろうか?
企業も最先端の知を担う者もつつましやかに祖国への敬意を述べる。しかし、お金にまつわることはシビアだ。経済合理性に従う。国家、地域が育んだ者は、国家、地域への敬意を表面上払いつつも、唯物論的には払わないというわけだ。国家は依然として分画され、資本と知識労働者は国家を超える。これが現状だ。国家に縛られたものはコップの中の水、容易に離脱するものは水蒸気のようだ。
こうして国家や地域は無力化している。多国籍企業が「この法律を通せ、この経済政策を飲め、嫌なら他へ行く」と恫喝するのである。知識労働者は多国籍企業が与えてくれるフィールドで活躍し、祖国を見捨てる。それだけではない。中小企業も生存のために国家を超える。取引のためには仕方がない。こうして、国家や地域に縛られる一般労働者と、国家や地域そのものというグローバリゼーションの時代の弱者が取り残されるのだ。そんな状況で、一国の枠組みで何かを解決しようとして、出来るだろうか? 例えば、TPPを巡る騒動で、賛成にも反対にも強く肩入れ出来ない。上の赤字の叫びが、いわゆる第三世界から起きるとき、どうすればいいのだ? 勿論、どちらかというと反対なんだが。それは本質に反対するというのではなく、片務性に反対するということ、今のままでは不平等条約にしか見えないからだ。偉そうに日本国家に提案したり、命令したりした気になっている日本の議会主義左翼が大衆、特に一般労働者から支持を失っている理由は、こういう論理が世界に働いていることを一般労働者も知っているからである。そのことを左翼政党は理解したほうがいい。あなたがたの理論には、もう、説得力がないのだ。
上で一国社会主義に飲み込まれた日本の議会主義左翼の言うことには説得力がないと書いた。ここで答えは明らかであろう。無力なものは、国境を超えて団結せよ。個別分断を乗り越えよ。万国の一般労働者は団結せよ! そして、諸国家も団結せよ! 勿論、国家は排除の論理の上に成り立つ擬制物であることは重々承知している。だけど、今のグローバリゼーションのルールに従うなら、そして恐らくゲームの理論を適用するならば、国家は条件の恵まれた一国の勝ち、その他は総崩れというバトル=ロワイヤルゲームに帰着するであろう。それは、安定性の欠いた社会になるであろう。それを避けるには国家同士が団結してコトに当たるしかない。
さて。貨幣がどうして貨幣たりえるのか? 王様のたとえ話をマルクスはしていたように思う。だが、王様には、血と暴力と権力がまとわりついているのだ。貨幣は血と暴力と権力の象徴である。血と暴力こそが貨幣の実態を与え、そして権力の象徴になると言うべきか。貨幣に強制力を与えるのは何か? 多国籍企業ではない。国家なのだ。結局、、、、多国籍企業は国家を選択する、と言いながら、少なくとも一つは選択する=固着するしかないのだ。(一つなら「多」とは言わないが)現実とは残酷で、先日、アルジェリアで悲劇があった。暴力から守ってくれるものは直接的には暴力装置だけであり、それを合法的に保持できるのは国家だけである。彼らの弱みはここにある。すべての国家に拒否されたら、彼らは存在出来ない。これを利用しない手はないだろう。尤も、知識労働者は他の企業に移るか、一般労働者になるだろうけど。諸国家の一つでも、そこで多国籍企業、あるいは投資家集団に甘い顔をすることは――日本語では「抜け駆け」と言うべきか――、ゲームの破綻である。
実は、国家の取り得る当面の選択肢にはおぞましいものがある。それは、すべての国家が等しく多国籍企業やら投資家に媚びまくり、福祉国家を止めることである。現実は、その方向に向かっているように思える。そのことは一般労働者の生活苦を引き起こすであろうし、現に引き起こしている。そこで彼らはこういう「選択肢」を自然現象であるかのように描き出すであろう。古くはマルサス、現在は、、、新自由主義のイデオローグの小物たち!(小物というのは、彼らが遠い未来に名を残すとは、到底思えないからである。) 資本の論理のまえに、我らがプロレタリア大衆がいつまでも無口であろうか? 行動に移すことがないであろうか? だが、、、今のままでは、、、個別撃破の餌食になるであろう。
グダグダ書いて同じところを回っている。そう、この連環を断ち切り、飛翔しなくてはならないのだ。一言で言えば、民主主義の再建。だが、それは、一国の枠組みでは不可能であることは明らかだ。と同時に、民主主義のルールは一国内を前提として成立している現状があり、それが現在の民主主義の不可能性を成立させている。そういうわけで、
インターナショナルこそが必要なのだ。
黄色でも、赤色でも、国際主義があるところがいいインターだ。国家をして、かつての福祉国家としての、聖なる役目を強制させ、同時に、国家の枠を乗り越えた民主主義を志向するインターが。レーニンは言った。階級のあるところ、国家あり、一国の国家権力を奪取しても階級対立は亡くなるわけではなく、階級闘争のためにこそ国家権力は大事なのだ、と。レーニン主義がいかに民主主義の観点から問題があろうとも、レーニンの偶像が破壊された今、改めてレーニンの見通しの確かさが、その「聖像化された衣装」をはぎ取られたがゆえに、明らかになったと言えないだろうか? 少し前までシングルイッシューで、リゾーム的な連帯がもてはやされた。それで何を得たというのだ? 一般労働者――プロレタリアートが獲得し得るのは、
全世界のみ
である。世界の一般労働者は、世界を獲得することを目指すしかないのだ。そして、国家をして、福祉国家の役割を果たさせるべきなのだ。
おっとっと。これでは社会主義革命万歳! のようではないか。ちょっと待った。純粋な社会主義を目指したことの悲惨は、ソ連の歴史で明らかだと、書いたではないか? 一体どういうことだ? 小生が書いたのは、国家の役割について、である。そこは社会主義でやるしかなかろう、と。すなわち、国家の欠くべからざる要件として社会主義がある、と言いたいのである。社会主義について言いたいのはそれだけだ。社会主義のシステムそのものは、進歩も進化も、あこがれも夢も何も齎さない。それらは自由から齎される。社会主義が齎すのは、自由な人間活動によって人々が得たものの「分配」だけである。国家の巨大な官僚制はそのシステムを有効に機能させるために存在する。だから、小生は、自由主義に基づいた市場経済を否定する気は全くない。この愉快なものには大いに活躍して欲しいと思っている。但し、世界的に団結した国家、その背後にある一般労働者に服属して!!
もう少し自由主義が可能な条件を考える。ホッブズが「万人の万人に対する闘争」と名付けたような状況では、社会は「ヒャッハー」(言うまでもなく、北斗の拳の世界)な弱肉強食となる。とはいえ、弱者も刃物などで強者を殺せる。こうやって、社会は維持できなくなるだろう。そこで、暴力を「何か」に負託することで、社会を維持するようにする。その「何か」が現代では国家である。国家の本質が暴力であるのは、余程の平和ボケな人でない限り了承するだろう。その国家が、法を行使――それは「法を守らない」者への暴力に裏打ちされる――することにより、各人が暴力の恐怖から解放される。そうした安心の上に、自由は可能なのだ。国家暴力を背景に、自由やら、それから生まれた様々な自由主義的原則は可能になる。
自由主義者は、国家の持つ機能に敬意を払わなければならない。逆に言えば、自由な経済を欲する経済主体に対して、国家は「ショバ代」という名の税金を要求する権利がある。そのショバ代は、世界中で調整されなければ、上に描いたような、「有利な条件競争」となり、共倒れか一人勝ちという、大きな枠組みでの「ヒャッハー」の再現となる。思うに現在、このトバ口に人類はあるように思う。
かつて、とある大学の総長が入学式で「国家・社会に感謝せよ」と言い、左翼学生が大騒ぎした。いきなりそんなこと言われてもなあ、ということだ。だが上に見た理由により、同じことを経済強者に対して言うべきではないか? 勿論、そこには「世界(に感謝せよ)」が付け加えられるべきだが。
小生が考える、当面可能な「理想的な社会」イメージは、歴史的に見て動的なものではなく、国家という社会主義的政策を行なうケツ持ちがいる上で、自由主義をやるという、仕組みとしては歴史的に見て静的なものである。マルクス主義の図式が歴史=論理的な、動的な形で自由主義(→独占資本主義、帝国主義)→社会主義(低次の共産主義)という歴史的に動的な流れを有するのに対し、小生の考える図式は、「自由主義、社会主義」という形では静的であり、土台としての社会主義、その基礎の上に作られる自由主義、ということになる。但し、その自由主義が齎すものは、大きな変化、ダイナミズムであろう。根(社会主義)がしっかりしていると、花(自由主義)はしっかりと花開くだろう。よって、以下に示すイメージで社会主義、自由主義のピラミッド、そしてそれらに分散する共産主義を位置付けたい。
さて。上のほうで人間を育むものとして、「家族であり、地域であり、学校である。学校はたいていの場合、国家に規定される」と書いた。家族の考え、地域(の人々)考え、そして国家イデオロギーがどういう色合いであれ、叩き込まれる。家族、地域、国家のいずれも「擬制」であり、構造物である。だがそれは、紐帯としての幻想――注意しなくてはならないのは、これらの幻想は実体化していることと、これなしでは人間は恐らく生きていけないこと――が色濃く染み込まされている。家族愛、パトリオティズム(郷土愛、愛国心)である。
ここで「愛」という言葉が出てきた。広く知られるように、人間の愛とは、差別的なものである。対照的に普遍的な愛が神の愛である。人間は「天上天下唯我独尊」という言葉で示されるように、唯一無二の存在である。家族、特に両親から「お前はかけがえのない存在だ」として、他の子と区別されて育てられ、長じては多くの国家で叩き込まれるように、「神の国」などとして祖国を特別なものとして捉えるように叩き込まれる。「愛」にまつわる意識は、皮肉な言い方をすれば刷り込みなのだ。勿論、何らかの愛を伴うのだが。但し、この言葉が表す現象には矛盾がある。まず、両親は兄弟にも愛情を注ぐ。そこで他者の存在を最初に知る。地域社会に子供デビューして、よその子を知る。よその子の親は自分の子――すなわち、子供である自分以外の子――を自分以上に大事にする。学校では、一人の生徒として扱われる。愛の唯一無二性は、社会を知ることによって拡散し、擬制的な中で普遍的なものとして現れることを知る。多分、この意識が拡張されて人格化されたものが、きわめて人間的な形での「神」なのだろう。それはともかく。人間は大人になり、他の多くのものに対してではなく、何か特別なものに愛情を注ぐようになる。そういう風に刷り込まれているからか、それが本能に由来するのか、そこは分からないが、そうなのだ。男女の関係なんか、象徴的ではないか? 子ども、あるいは若者の純粋な普遍性を持った愛は、大人として成熟するにつれて、ましてや子供が出来たならば、人間的な、差別的な愛に変化する。
ここで小生が信頼する哲学者、スラヴォイ=ジジェクの言い方を思い出そう。「普遍的な愛=人間性の欠落」。普遍的な愛を考えることは出来るが、恐らく実践することは人間には出来ない。何かを選び、好む。選んで好むということは、選ばれないもの、嫌いなものがあるということである。だが、この中で優勝劣敗で強い者の「愛」だけが優先されるとなると、社会は成立しない。上に描いたことの繰り返しである。人類史の要請として、パトリオティズムは生まれたのだと小生は思う。
さて。ジジェクはマルクスに依拠している。マルクスをまた思い出そう。彼の哲学は唯物論である。この言葉からは「愛」とか遠そうだ。だが、マルクスの本を読めばすぐに分かるが、彼は愛の一つの表れ、「怒り」をちりばめた文章を書いている。愛深きマルクスは、怒りからか強烈な罵倒表現をしている。レーニンはもっと強烈だ。小生思うに優れたマルクス主義者は愛の人なのである。彼らは何から何を差別しているのか? そこが問題なのだ。言うまでもないだろう。彼らの愛はプロレタリアートに向いた。それが実体であったかどうかはともかく。(実体としてのプロレタリアートだったら、あの『ブリュメール一八日』は何なんだ、とか、色々突っ込めるが。)
プロレタリアートを愛する、ということは、プロレタリアートじゃないものをその「下」に置くという差別を行なうことと同じである。こんなことを書けば差別が大嫌いな、弱者憑依した昨今の左翼が怒りそうだ。だが、人間の愛が差別的である以上、マルクス主義者のこの崇高な差別は、極めて人間的であり、彼らが人間であるということの証ではないだろうか? その上で、エンゲルスは多数者革命を言い、プロレタリアートは他の没落階級、農民階級との連帯を訴えていたと思う。社会の必要性からパトリオティズムが生まれたように、プロレタリアートは階級闘争を進めるために、その愛を他の味方にするべき階級に向ける。愛が神を生んだように、階級闘争の必然は階級横断的な階級闘争を生む。こうして、プロレタリアート(やその「指導者」)の愛は、人類の中で比較的に普遍的な愛へと転化するのだ。
自分から出発し、社会を、国家を形作る、実体を伴った幻想としての愛。これなくしては、人間は人間でなくなるだろう。人間はどうしようもなく差別的なものだ。この問題は、また後で触れよう。
さて、確認したいことは、マルクス主義は実は愛の思想であった、ということである。唯物論を起動させ、魂を呼び起こさせるものは、マルクスやレーニンの文章に染み込んだ愛であった。階級闘争は愛によって推進力を得る。彼らは階級(プロレタリアート)を発見し、プロレタリアート(と農民階級)こそが――生産を担い富を産むという本質によって――最強の存在であるのに、社会の構造によって弱者に貶められていることを怒りを以て告発し、転覆しようとした。それは必然であることさえ証明しようとした――そして多分失敗した。失敗したことの論理的な証明は不可能であろうが。
そしてキリスト教社会における神は、言うまでもなく「愛の神」である。キリスト教は歴史的展開によって無神論や自由主義を齎した。これらは懐疑の結果であるとともに、懐疑にも関わらず絶対に消えることがなかった――人間の本質だからだ――愛の結末である。愛はキリスト教、そしてマルクス主義を貫く。勿論、神の愛と人の愛は違うものだが、どちらかがどちらかを産んだ――どちらがどちらかは信仰によって異なろう――という点では親子のようなものだ。愛を慈悲と言い換えれば仏教を背景にしたアジア諸国の共産主義者にも当てはまるのではないか? いや、あらゆる宗教には愛に相当する概念があり、それこそが推進力であろう。そしてそれらの宗教的背景を持った各種共産主義者にも当てはまろう。
マルクス主義の源流は、レーニンの説明によるとドイツ観念論、フランス社会主義、そしてイギリス経済学とされる。だが、西欧の文脈で言えば、すべてキリスト教の愛の産物である。人はマルクス主義者、あるいは共産主義者として生まれるのではなく、状況によってマルクス主義者、あるいは共産主義者になるのだ。彼らは生まれ育つ時の影響から全く自由ではない。彼らは愛を、文化的、歴史的背景を持った、まずは家族によって染み込まされる。そして地域、そして国家によって愛の概念は拡大させられる。マルクス主義者、あるいは共産主義者になっても、その愛は残る。それが推進力だからだ。国際主義は、そういう愛の出会いのことであり、お互いに愛を抱えた人間がさらに大きな愛の形を求める考えのことだと小生は思う。だから、国際主義はのっぺりとしたコスモポリタニズムではなく、場合によっては激しい闘争もあると思う。家族、地域、国家によって育まれた愛=差別は、激烈な好悪の念を齎すと考えるべきだからだ。差異の相互承認。これほど難しいことがあろうか? 相互に認め合うには、共通の価値観が必要なのだ。また、共通の価値観があるはずのところでも、その中の差異によりお互いの違和感が強調され、相互蔑視に至ることもある。
ともあれ。家族、地域、国家は愛という、それ自体は幻想とも言えるものによって支えられ、その中の人は、心の中から溢れる「何か」によって愛を実体化する。マルクス主義や共産主義は愛によって駆動する。歴史的背景、文化的背景に依拠するマルクス主義や共産主義は、各人によって抱かれ方が異なって当然なのであり、愛についての一つの形であるとするならば、マルクス主義や共産主義は、愛の神が結局のところは汎神論的にならざるを得なかったように、
どこにでもあり、どこに入り込んでも構わない理念ではなかろうか? それは自由主義、社会主義などと区分されるべき考えというよりは、他の考えやシステムの背景にあり、他の考えやシステムを駆動させる、一つの大事な理念の要素なのではないだろうか? 壮大なパッケージのように捉えられていたマルクス主義、特にマルクス=レーニン主義は、実は豊富な内容をもった偉大な思想の要素の集合体として捉えられるべきではないだろうか? だから、それらの要素は状況に応じて取り替え可能で、組み換え可能なものとして捉えられるべきなのである。そして言うまでもなく、共産主義は人間的なことどもを常に吸収していくべきものなのだ。
偉大なマルクスの考えに代表される共産思想は、汎神論的な、どこにでもいる、あるいはどこにでも入り込む、イデオロギーの要素として小生は今、捉えている。これは絶対に信仰の体系などではあり得ない。もし、マルクスの考えが科学的であるとするならば、それは検証され、批判され、何かに付着し、組み込まれるべきものなのだ。全否定も、全肯定もされるべきではない。相対性理論という科学の体系が参照されるとき、その理路が紹介されるときに、わざわざアインシュタインの名前が引用されないように、マルクスの科学的な考えが参照されるとき、わざわざマルクスの名が引用されるべきではない。「労働価値説によると」「物象化論によると」とだけ、引用されるべきなのだ。
少し横道に逸れた。愛に裏打ちされないシステムは人間と無縁である。愛は共産主義によって表現され、人間社会の駆動原理になる。家族、地域社会、国家はそれぞれにシステムを持ち、それは愛=共産主義によって動く。その意味で、ともすれば冷酷、あるいは残酷な科学の原理は愛に奉仕すべきである。だが奉仕するためには冷徹な科学的思考が欠かせない。資本論が愛の一つの形である怒りと共に書かれたことを述べたが、その怒りを支えたのは科学的な分析思考である。どちらが欠けても、あの大作は成立しなかったであろう。家族愛、郷土愛、愛国心という「愛」なくして、家族、地域、国家はない。これらを支える理論=幻想の前提あるいは要素は愛であり、共産主義はその表現である。そして愛を確かめるように、科学に裏打ちされることが望ましい。
ただし。もう多くの人が言うように、科学とて万能ではない。猛威を振るったマルクス主義に反発して、カール・ポパーは科学に「反証可能性」という概念を導入した。この概念によると、マルクス主義者らによって社会科学とされたものの多くは再現不可能であり、科学では取り扱えないことになる。これは極端にしても、科学が取り扱える範囲というものは、人間のことどもの一部に過ぎない。ポパーは正しかった。すなわち、マルクス主義を含む共産主義イデオロギーは科学というものを、お目付け役、検証者として従えることはありこそすれ、科学そのものではない、ということを彼は示したのだ! もっと大きなものなのだ、共産主義は。マルクスは言った、「人間的な物事で、我に関せざるはなし」。理性を包む、もっと大きなものに共産主義は自覚的であるべきである。「道理」など、人間の一部に過ぎない。
例えば、中国共産党は理性を超えるものによって救われたことがある。中国共産党の紅軍は追い詰められて長征を決意する。差し掛かった大渡河の吊り橋である濾定橋には、チェーンが渡るだけ。誰かが先に渡って――その先には敵の機銃台がある――、横木を橋に渡さなければならない。死は必然とも言える状況。そこで二二人の若者が志願し、何人かは犠牲になったが、仕事をやり遂げ、紅軍は蒋介石の包囲を突破した。さしもの蒋介石も紅軍の兵士らを讃えないわけにはいかなかった。兵士らは理性によって決断したのだろうか? 否、同志愛、祖国愛に殉じる覚悟によって決断したのだろう。
決定的な局面では人間は理性によっては動かない。
こういう考えは、否定しようにも否定しようがない。マルクス主義に代表される、これまでの共産主義は、近代理性主義の産物であるかのように言われていた。だが、この思想を駆動するものは、見てきたように理性ではない。理性以前の信仰、信念と言えるものである。それは前に触れたように、家族、地域、国家によって育まれる。かつて近代国家が成立していなかった頃は、宗教が育んだであろう。中世以前は、宗教こそが世界であった。そして、理性の業火に焼かれた近代を経ても、宗教によって育まれた「人間的なことども」は、どっこい生き残り、姿を変えつつも我々に伝えられている。よきものは神の名の下に、仏と共に。多分、悪しきものも(笑)。いずれにせよ、共産主義が駆動力にすべき愛について掘り下げているのは、宗教のほうであろう。だから、この問題を真面目に考えるならば、自分を育んだ愛の形について、考えなくてはならない。その一番の参照項は、それぞれの属する社会の宗教である。無神論は神学から生まれたことを忘れてはならず、神なき宗教もあることを忘れてはならない。ニーチェが「神は死んだ」というとき、痛苦を感じていたことであろうことを想像することは難しくない。観念論?唯物論の裏側に過ぎない。ウソだと思うなら、レーニンの『哲学ノート』の資本論に関する記述を読めばいい。宗教やそれから派生した哲学は、共産主義者は常に敬意をもって参照項にしなくてはならないだろう。そして、時によっては批判しなくてはならないだろう。エンゲルスが指摘するように、そもそも、原始キリスト教団は共産主義の実践者だ。愛、慈悲は共産主義によって表現される。その一番の表現方法は、分かち合うことである。
さて。ちょっとは黒いことを。愛、慈悲と共産主義を絡めて描いた。愛は、一見したところの反対物と分かちがたく存在する。それは、憎しみだ。思い、焦がれ、得られないとき、愛は憎しみに変わる。反共主義者がマルクス主義や共産主義を「憎悪の哲学」と言うとき、そこには真理が確かにある。だが、愛ゆえに苦しむからこその憎悪である。一つの歌、レーニンが生涯愛した歌の日本語訳を紹介しよう。憎しみを捉え、昇華する歌、『憎しみの坩堝』。
憎しみの坩堝に 赤く灼くる 黒鉄(くろがね)の剣を 打ち鍛えよ
思うに、これまでの共産主義者は人間の素晴らしい面を称揚し、勇気を与えることにばかり気を取られ、その面と不即不離の裏面――妬み、そねみ、憎悪――と本気で向き合ってきたとは小生には思えない。階級敵に向けられる憎悪は正当化される一方、他のことは「いけないこと」として禁圧、抑圧するのはまだしも、なかったことにされたりした。党の不正に対する怒り、それに対して何もしないことに対する憎悪は、党への攻撃として弾圧された。党や社会主義国家への批判者は精神病とされて隔離したことなど、象徴的ではないか? 人間的なことどもは、その歴史、文化を含め、総体として向き合わなければならない。この面でも、かつての共産主義運動や社会主義運動が民衆に対して抑圧的に現れた理由が分かると言うもの。上に描いた歌のように、負の側面も含め、人間の心は燃やされ、昇華されなくてはならないのだ。こういう面を宗教はどう扱ってきたか、も、勉強になろう。正直、キリスト教は弱い。例えば、性的本能に対して「眼を抉れ」なんて、そんな無茶な。親鸞の名前を挙げるに留めよう。そして、キリスト教の「弱さ」が、マルクス主義の弱点にもなっていると小生は思っていることも。総体として人間に向き合うこと。これが、共産主義の宿命であり、義務である。それなくしては、愛も分からず、憎しみも分からず、人間を動かすことは出来ないのだから。
愛と憎しみ、人間的なことどもを総体として見据え、家族、地域、国家などを貫く原動力を見据え、世の中を動かす共産主義。だが、人間=愛(=憎悪)=差別の本質を見据えた場合、まず、その愛の固着点は、自分とその周辺になろう。上で競争の必然を書いた。自分が勝つ、それは本能的なものだ。でなければ、どうしてスポーツをすると言うのだろう? 優勝劣敗や、それに正当性を与えることをを否定することは出来まい。但し、得たものは、分かちあったほうが人間の摂理に適っていよう。スポーツならともかく、食べ物を得ることを考えてみよう。そばに腹を空かした人がいて、何の痛痒も感じずに食べ物を独り占めできるであろうか? それは極端にしても、まずは得たものを家族とシェアすることは自然なことであろう。家族の内部では分かち合うという意味での共産主義が当たり前である。その愛は親子の情愛などとして現れよう。ちなみにその情愛は古くは儒教の根拠である。そして、一番固く、確信しやすい形態の愛である。そこから出発し、愛は拡散し、薄まり、近代では国家に至る。人によっては、世界とか地球! ただ、良く見ておかなければならないのは、人間が有限性に支配された存在であり、対象が拡大すればするほど、薄くなるということである。すなわち、無差別=愛の欠落に、人間の愛は帰着するのだ。二人で分かち合うのと、六〇億人で分かち合うのとでは、意味が違って当然ではないか? だから、分かち合いの精神では、一つのルールを認めておいたほうが実際的だと思う。すなわち、「自分を中心とした同心円的構造の中で、周辺に行くほど自分が得たものを分かち合うことは薄くなる」というルールだ。重み付という名の差別をルールにするということである。実はこれは税制によって制度化されている。民主主義が十全に機能していれば、この重み付=差別=愛が、国家の枠内で機能するということである。
獲物を狩るように、競争社会で成果を得る=金を得る。その自由は保証すべきだ。だが、それを認める社会を成立させるために、国家は暴力を負託され、税の形で再分配の機能を負託される。国民国家という擬制であり、それが今、グローバリズムという資本の運動で攻撃を受けているのは先に書いた通り。その時書いたことと、愛について論じたことを相互に参照すれば、愛の形は国家を超えて、世界大に行き渡らせなくてはならない。でなければ、世界の諸国家と、恐らく人類は共倒れとなるであろう。その道はいろいろ考えられるが、様々な問題もあろう。
一つは世界政府。第二次世界大戦の勝者クラブに過ぎない国連を利用しようとしても、勝者は是としないであろう。というのは、ドイツや日本が対等の力を有することを彼らは恐れているからだ。別の世界政府組織を作るとしても、今の世界の枠組みを前提にするならば、すでに国連があるのに、ということになろう。だから、インターナショナルの再興が必要なのだ。今の社会主義やら共産主義運動の体たらくでは、夢のまた夢・・・。
では既存の国家に、国家を超える契機はないであろうか? 実は、ある。他ならぬ日本国だ。明治日本は、それまでの支配階級である武士の中の下層が、理論武装して維新というクーデターを行なって成立した。彼ら武士の何が凄いかというと、自らの階級を解体したことである。そして、擬制として、西欧の近代国家の体裁を整えた。大和民族の持つ、歴史的に育まれたブリコラージュ、過剰適応能力の成せる業である。西欧に追いつき、追い越せという考えは、西欧への恐怖心に裏打ちされたものであった。支那をはじめとするアジア諸国のように植民地化されることへの恐れ。亜細亜は亜細亜であり、西欧とは違う道があるべきだ。岡倉天心らはアジア主義を言う。田中智学は八紘一宇という言葉を作り、道義による世界統一を訴えた。民族、国家の様相がそれぞれ異なりつつ、それでいて統一されている。これが、そもそもの八紘一宇である。インターナショナリズムと何が異なるのであろうか? この言葉は軍国主義の象徴として、戦後抹殺された。だが、これは、戦前の、日本の狂気を表現していると言えなかっただろうか? 牙の先まで鋼鉄で武装した帝国主義の時代、国家イデオロギーとしてインターナショナリズムを建前と雖も採用していたのは、レーニンのソ連と並ぶ狂気であった。どちらも、裏切られた、正確には自らに裏切られた革命理念であった点も似ていよう。
八紘一宇という狂気は、西欧帝国主義の罪業を撃つ面があったので、軍国主義の象徴として、アメリカ帝国主義によって消された。アメリカのGSは、民主化という触れ込みで、日本国に新しい憲法を押し付けた。だが、戦争に嫌気がさしていた日本人は、有難く押し頂いた。国家主権の本質である、国家の暴力装置である軍隊を否定する憲法を! ちなみに日本共産党は、国家主権を否定しかねない新憲法を批判する討論を国会で行ったが、これは民族民主運動を共産主義運動に結びつけていた当時の国際共産主義運動の認識としても、非常に正しかった。日本共産党が日本国民との間にある様々なズレは、日本の悲劇、あるいは喜劇を彩る題材だが、ここでは触れないでおこう。総体として、一見、別の狂気――そのまま読めば国家主権の否定を、国民が国家に命じているのだから!――である平和憲法が、八紘一宇に変わって国民に押し付けられた、但し、歓呼をもって。ここで憲法前文を読んでみよう。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
右派の諸君は、これをもって空理空論という。それは分からないでもない。だが、裏読みすれば、「平和を愛する諸国民」という前提が崩れれば、日本国民は国家に平和主義を捨てても良い、と読めないだろうか? これは、日本国民が、日本国家を串刺しにして、世界を恫喝していると読めないだろうか? 高度に発展した日本国は、人を大量に殺すに足る科学力がすでにある。おまいら、ワシら日本国民は、おまいらが平和を愛するものとみなして、九条の言うとおり「国の交戦権は、これを認めない」ことにしといたる、というわけである。憲法第九条を守るという運動は、日本国家に命令するだけでは不十分であり、日本と関わる全ての国家に対する恫喝としてアピールしなければ、意味がないと小生は思う。
この問題をもう少し考える。日本国には、自衛隊はあるが、軍隊はない。勿論現状では、その穴を埋めるように、日米軍事同盟があり、米軍基地はあるが。九条がペテンと欺瞞に見えて仕方がないのも当然である。ちなみに、真面目なマルクス主義者は、「憲法を守ろう」とは言わない。なぜならば、すでに守られていないからである。彼らは、保守反動勢力による「改憲阻止」と言うのだ。しかし、しかしである。アメリカは他の国家に比べれば、フェアであり、信頼も尊敬も出来る面が多いとはいえ、やっぱり他国である。その軍隊が日本に実質無期限に駐留しているのは主権国家として異常である。いずれはご帰国いただきたい。では、パワーバランスにおける空白という、過去に戦争をいくつも誘発してきた事態が生じることを、いかに防ぐか? ここでモノを言うであろうことが、九条を巡る世界への恫喝である。勿論、潜在的武装能力という担保が必要であろうが。条件付きとはいえ、非武装中立の可能性はゼロではないであろう。ここに一つの特異点が生まれる。軍隊を維持することは、国家財政を圧迫する要素である。日本の条件付きの成功は、周辺諸国家の軍隊の低減、ひいてはインターナショナルを通じた運動により、憲法九条相当の条文を組み込ませる可能性がないと、言えるだろうか?
華夷秩序の端っこで、自由主義経済を独自に発展させた江戸幕府下の日本は、東アジアの域内で力を蓄えていた。町人文化、武家文化とも、高い水準にあった。下層武士や商人は、黒船の出現以降、総体として事態を学び、支那(中国)−朝鮮−日本という華夷秩序では立ち行かないことを学んだ。明治維新で開国し、富国強兵、近代国家の道を進んだ。この変わり身の速さを、清や朝鮮は猿呼ばわりした。彼らは華夷秩序が通用すると考えていたわけである。日本が特段優れていたわけではない。過剰気味の適応能力があったのだ。漢文が分からなければ馬鹿にされた維新当時の日本は、たった二世代で漢文を忘れ、西欧の文脈で自身とアジアを語った。そして、亜細亜を下に見る恩知らずとなった。だがこれは、恐怖に駆られた近代化ゆえの結果であり、近代の罪、ひいては近代国家の持つ罪と言えなくはないだろうか? 西欧列強に追いつき追い越せの時代であった。悪しき面を含め、学んだ。だが、植民地経営の肝――現地人を立てるべきところは立てる――まで学ぶほどに洗練されてはいなかった。ともあれ、日本は、アジアにおける近代国家の先駆けとなり、過剰適応し、地域で浮かび上がってしまった。
人間は、成功ゆえに失敗する。日本は帝国主義にまで突き進み、破滅した。もし、もしも、日本に近代が押し付けられなかったら? そう考えることは不当だろうか?と、幕臣の子孫に突きつけられたことがある。それは反動的な問いかけだろうか? 排他性を前提とする近代国家が今、世界中で様々な問題を引き起こしている。竹島、尖閣諸島、国際ルールでは日本のものであることは言うまでもない。だが、問題は、国際ルールの正当性が何に由来するのか?ということである。二千年くらい、華夷秩序で、境界は曖昧にしてきた知恵。これをナシにするほど、国際ルールは偉いのか、ということだ。近代国家のルールに縛られ、下らないことで敵対し合う。得をするものは多分誰もいない。いるとすれば武器商人くらいか、それも非当事国の。
確かに武装なき国家は本来ありえない。排他性こそが国家の本質であり、近代国家の場合は徴兵などを通じて国民にこのことが叩き込まれる。極論を言えば排外主義こそが国家イデオロギーとしては真っ当、否、健全なのだ。それを反転させようという憲法の平和主義は、近代国家への挑戦でなくて、何なんだろうか? 東アジアの地で、どこよりも近代を突っ走り、一度は破滅した日本。日本国には世界史における歴史的使命、すなわち、近代国家を終焉させる触媒となる歴史的使命があると思えないだろうか? 憲法の平和主義が貫徹されるには、近代国家の死滅しかないのだから。さて、グローバリゼーションは上に見たように、資本の運動において国家を易々と乗り越えることを可能にした。負担(コスト)は、国民、国家に押し付けて。諸国家はグローバリゼーションと向き合うために、今や手を携えなければならない。でなければ、共倒れ。恫喝を隠し持っていなければならないとはいえ、平和主義憲法を有する日本国は、諸国家の連携において、主導権を取るのに道義的に有利な立場にあるのではないか? それにしても不思議ではある。近代国家の終焉を自覚し、同時に近代国家同士の手を携えよとは!
でも、そうするしかないのだ。参照項はレーニンの『国家と革命』だ。レーニンは、無政府主義者(パンネクック)との論戦で、革命により無政府共産に飛び越えることが出来るとするインテリに理論上の打撃を与えた。レーニンは国家の排他性を言葉ではなく現実として理解していた。国家の死滅に至る道筋を、レーニンは階級の死滅の後に求めた。ついでに、民主主義の死滅も。「死滅」! 実にヘーゲル論理を否定する言葉ではないか! そして、日本人が惹きつけられる言葉ではないか! そして、明治維新を行なった主力たちである武士階級が、自らを廃絶した歴史を有する日本人には痺れる言葉ではないか! 話はこうだ。まずは諸国家の存在を認める。それらの本質である軍隊や貨幣という暴力の道具、あるいは装置を認める。だがこれらは共倒れの危機にある。国家単位での無制限の暴力の発動――何かを口実にした戦争、あるいは通貨切り下げ競争という倒錯した経済戦争――は共倒れを早めるであろう。あるいは、それらの暴力の無力を大衆に思い知らさせるであろう。現在の国家のスキームは、理論的には知識人に逸早く、そして現実でもって大衆に思い知らされることになるであろう。そこで国家には二つの選択肢があるように見える。一つは世界統一政府。もう一つは徹底した分権化。スコットランド、バスク、そして何よりも現在のアラブを見よ。だが。彼らはどれくらい福音たりえるだろうか。世界統一政府は一見多くの矛盾を調停するであろう。だが、「強者はルールを作り、弱者はそれに従う」のが現実だ。中国やアメリカのための統一政府になりかねない。二つの国連がそうであったように。コトを決するのは、現行国家の力という倒錯に陥りかねない。
ここに来て国家に期待することは、危険であることが分かる。国家の「外部」に<力>を与えなくてはならないのだ。どのような「外部」が考えられるのだろうか。多国籍企業群と向き合えられる<力>を持った「外部」とは。
・国家死滅の理路(続き)。
・競争の成果の共有(柄谷のX)

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