『永続敗戦論』(白井聡著、太田出版、atプラス叢書)
21世紀にあって、レーニンを断固として擁護する著者による戦後日本論。嘘をつけないこの人は、残酷な真実を暴く。まるでまどか☆マギカのキュゥべえのようだ。だが、キュゥべえと違うのは、この著者には静かな怒りを込めているところだな。
で。この本が示す一番エゲツナイ真実とは、戦後民主主義リベラル・あるいは水割り左翼の「平和と民主主義」なるものが保守と共犯であった、ということ。そして現在の行き詰まりは日本の国体=天皇制の見直しに行き着かざるを得ないことを示している。かなり刺激的な本だ。ペテンと欺瞞のうちに死に体となっている日本の左翼は、この本を受け入れることができるだろうか? そして、自家撞着に陥っている保守派にもこの本はお勧めである。
この本の最後のほうで、河原宏氏の『日本人の「戦争」』に触れている。著者の読書力の高さに感心する。それから、右派と目される人々の解説もとてもよかった。特に良かったのは、三島由紀夫を引用することで、戦後日本の欺瞞を余すところなく暴いたところだね。
『日本人の「戦争」』(河原宏著)の小生の読書メモはこちら。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/1855.html
でまあ、いつものように章ごとに。
第一章は「「戦後」の終わり」と題して。
・二〇一二年七月一六日の「さようなら原発10万人集会」で、大江健三郎が中野重治を引用して「私らは侮辱の中に生きている」と訴えた。だがそれは原発に関する「無責任の体系」に対して何ら責任ある態度を政府や東電から引き出せないことを示しているだけではない。戦後全てに対してそうなのだ。戦後日本というシステムそのものが、(左右を問わず)日本人を侮辱しているのだ。
・原発だけでも、侮辱と言うに相応しいキーワードをいくつも列挙できる。「拡散した放射性物質は無主物(よって東電には処理する責任はない)」「想定外」「コントロール下に置かれている(収束宣言)」「復興予算の流用」。
・各種学会は箝口令を敷き、「知らしむべからず、由らしむべし」を行なった。これも侮辱である。
・実はこれらは戦前の反復である。「(特攻など)究極の犠牲を強要しておきながらその落とし前をつけない」人々。彼らは同時に「別にそれを望んだわけではなくどちらかと言うと(大東亜戦争に)内心反対していたのだが、何となく戦争に入っていかざるを得なくなった」と言う。その「彼ら」は、戦争指導者だった。
・丸山眞男はこの現実に対して「「体制」そのもののデカダンス」と怒りをもって指摘した。
・著者は言う。地震・津波、そして原発事故は戦後というパンドラの箱を開けてしまった、と。「平和と繁栄」の時代は終わった。全面的腐敗が辺りを覆っている。それは「戦争と衰退」の時代の始まりであろう、と。ゆえに、腐敗を齎した戦後とは何であったのかが問われなければならない、と。この侮辱は偶然ではなく、永きにわたって準備され執拗に潜在してきたものが露呈したに過ぎないのだ。
・建前が通用した時代は終わり、本音モードの時代に入ったとも言える。原子力基本法に「我が国の安全保障に資するもの」という文言が入った。「安全保障」とは、すなわち核の兵器利用(=核武装)である。だが既に非核三原則はアメリカによる沖縄への核持ち込みで破られていた。だが、その現実を「建前として」自民党政府は否認し続けていた。だがそれがそうでなくなったということだ。
・日米関係では、TPPが成立する情勢だ。米国による日本への軍事負担の要請は強まっている。多くの建前は風前の灯火となり、パワーゲームに日本は翻弄されている。
・外交と軍事の問題を突き詰めると「対米従属」という構造に行き着く。独自の軍事力を「平和憲法」でもがれた日本は、アジア諸国――中国や韓国の主張の多くが理不尽であろうとも――との関係が悪化すればするほど、パワーゲームとしての保障をアメリカに求め、それはとりもなおさずアメリカ言いなり=対米従属を深めることになる。「日本のナショナリズムは米帝の力によって成立する」という侮辱、いや、国辱なのだ。アメリカは経済ルールでもって、日本に対する収奪に舵を切りつつある。それに対して今の日本は何も出来まい。
・「平和と繁栄」という戦後の物語こそが、上に示した残酷な侮辱を隠蔽してきた。その底にあるのは、手垢のついた言い方だが「封建遺制」であると著者は言う。
・「戦後は終わった」。ならば、歴史に向き合う者の義務は一つである。「ミネルヴァのフクロウは夕暮れ時に飛び立つ」(ヘーゲル)がごとく、対象の認識を全きものにし、心の中でも終わらせることである。
・ソ連がどうして崩壊したのか。グラスノスチにより真実が明らかとなり、支配の正統性が崩壊したからである。それなしではソ連下の諸国は次に進めなかった。勿論、ソ連のようにエリートが情報を支配しているわけではない日本で、日本を根底から変えるほどの「グラスノスチ」が可能であるかどうかは分からない。だが、「対米従属」や「無責任の体系」について「知らしむべからず、由らしむべし」なことが多すぎる。このことを暴露することは、日本が次に進むために必要なことなのだ。
・中曽根大勲位の「戦後政治の総決算」と言う言葉がある。戦後の保守や右派は「戦後」というスキームに対して批判や否定を口先で行ってきた。だが、戦後レジームの実質的変更を行いつつも、根本的変更は出来なかった。「総決算」が「不沈空母」に帰着したように。
・まず、「敗戦」を「終戦」と言い換えた欺瞞。否認の始まり。これが根本。
・鳩ぽっぽの「最低でも県外」。それが破たんしたのは、鳩ぽっぽの無能ゆえのみではない。「国民の要望」と「米国の要望」が成り立たない場合、「米国の要望」を取らざるを得ない構造にある。民主党政権はそれを露呈した。
・だがこの屈辱は日本だけであろうか? そうではない。冷戦の前線であった国家である「台湾」「南朝鮮(韓国)」では、民主主義の真似事さえ許されなかったのだ。
・
「台湾」「南朝鮮(韓国)」の犠牲の上に、民主主義の外皮を日本をまとうことが出来たのだ。だから、「平和憲法の日本は軍事的に脅威ではありません」といくら力説しようが、本気で言っているとはアジア諸国は受け止めないのだ。本気で言っていると彼らが感じれば、彼らは話者である日本人を軽蔑するであろう。 そして、「台湾」のように負担を押し付けられているのが沖縄なのだ。沖縄こそが東アジアにとって一般的であり、本土こそが特殊なのだ。
朝鮮半島がすべて共産化したと仮定した場合には、日本の戦後民主主義が生きつづけられたかどうかも疑わしい。
(P41、東アジア政治史研究者のブルース・カミングス)
・この「日本における民主主義の真似事」から浮かび上がるのは、戦後日本は敗戦による罰を二重三重に逃れてきたことである。敗戦後も国体護持(かなり歪められたのは後述)し、戦後復興は素早く可能となり高度成長も行った。色々と目を塞いでも上手くいっていた。
・倫理規範の問題ではない。事実として敗戦を否認してきたのだ。そこで全般的腐敗が進行したのだ。
・10年ほど前に流行した本に『敗戦後論』(加藤典洋著)がある。平和憲法は国体護持の文脈で生まれた。そのねじれをどうするか、という本である。このねじれの根源(歴史)についてリベラルや左派は眼を塞いでいたのではないか、と。右派からは江藤淳がリベラル・デモクラティックが外的に強制されたがゆえに、同様に外的な力で無効化されることを指摘した。
・占領期。アメリカは日本に全く主体(主権)を与えなかった。封建遺制は利用できたので温存された。カール・シュミットの言葉を使えば日本は「正戦」において敗北した。道徳的な犯罪者にされたのだ。(論理的に日本が原状回復を果たすならば、「正戦」に勝利するしかないのだ。)
・さらに、戦後の世界で「正戦」に勝利したのは実は米ソの両大国だけで、彼らのみが「主権」を有せたのだ。
・「敗戦」を受け止めていなかったから「敗戦後」など実際は存在しない。対米従属構造の永続化しつつ、配線そのものを認識において巧みに隠蔽(=否認)する日本人の大部分の歴史認識という構造。著者は言う。
敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。
(P48)
・これが「戦後」の根本レジーム。保守派は「戦後民主主義」に対する不平を言うが、「戦後を終わらせる」ことを実行しなかった。それでいて長期に権力を独占できた。
・彼らの主観としては「神州不滅」、すなわち「終戦」であり「敗戦」ではない。この理路は当然ながらサンフランシスコ講和条約に至る歴史の否定となり、対米開戦に行き着く。「保守の密教は反米」というわけである。だがそんな蛮勇は彼らにはない。よってその昏い情念は国内およびアジアに向かう。曰く「中国には負けていない」「そもそも朝鮮半島は「日本」であった」など。
・こうして「敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く」=「永続敗戦」という状況になる。
・だが時代は変わる。アメリカは没落し、中国は力をつけた。上のような「永続敗戦」におけるオナニーが中国にとって害をなすならば中国は許容しないだろう。米国は日本の保護者ではなく収奪者として現れるであろう。TPPがその現われだろう。しかし日本はまだ「屈辱の体制」の中にいる。
・大岡昇平は戦時中捕虜になった。それを汚点と言う。国家は「捕虜になるな」と言っていたから、それは恥だと認識し、芸術院会員への推挽を拒否した。著者はそれを昭和天皇に向けられた「恥を知れ」というメッセージだと捉える。我々は「恥知らず」であり、政府は「恥ずかしい政府」であり、それに相応しい「象徴天皇」という次第である。その構造は、我々の日常生活、物質的な意味での日常生活さえ破壊するに至るであろう。
第二章は「「戦後の終わり」を告げるもの――対外関係の諸問題」と題して。
・古文書に領土の根拠を見るのは愚劣というのはその通り。そんなものと、国際法は関係ない。国際法とは、西欧列強の暴力という「最終審級」によって作られているのだ。暴力こそが境界線を決定する。
・日本の領土問題は日本が絡んだ最後の直接的暴力である第二次世界大戦の結果が絡む。敗戦の後始末の失敗が竹島、尖閣、北方領土という問題の本質である。この失敗を理解しない限り、領土問題の平和的解決はなく、戦争の潜在的脅威であり続けるだろう。
・一つ見なければならないのは、サンフランシスコ平和条約に中国・韓国・ソ連は参加していないこと。領土問題(=戦後処理)は個別に対応しなくてはならなくなった。
・この問題については生の条文をしっかり読むべきである。
・まずは尖閣問題。周恩来は棚上げを主張、田中内閣で同意したのは周知の通り。さて、中国の漁船が日本の巡視船に体当たりし、船長を逮捕した後に日本の正式の司法プロセスによって処断するという姿勢を見せたことは、領海侵犯者を日本の国内法に厳密に従わすこととなり、棚上げを放棄することと中国は受け取った。この領域の利害は漁民の利害である。
・さらに、船長に対する司法手続きを中止し、国外退去させるという高度に政治的な判断を一地方検察庁に民主党政府は押し付けた。実に卑劣である。なお、「弱腰」と民主党を揶揄する自民党ではあるが、橋龍たちが漁業協定を結んでいたのだから笑止千万。
・ポツダム宣言第八条を見よう。
「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定する諸小島ニ極限セラルヘシ
(P62)
中国は、尖閣諸島が日本側に帰属しない根拠をここに求める。日本はサンフランシスコ条約に基づき、尖閣諸島を放棄していない(アメリカ合衆国の施政下にあったとする)と主張する。注意すべきことは、中国はサンフランシスコ条約に加盟していなかったこと。日本側の主張はそこで意味を失う。
・とはいえ、中国にもジレンマがある。本気でサンフランシスコ条約を否定するならば、それは「連合国」の一つが日本に行なったことを否定することとなり、それは中国自らが戦後秩序を破壊することになるからだ。
・さて。「極限セラルヘシ」とは、日清戦争以降の獲得領土を放棄せよ、ということである。そこで歴史を振り返ると、一八八四年に山縣有朋が尖閣諸島への「国標建設」を上申するが、外務卿井上馨が清国を刺激しかねないと拒否している。沖縄併合(琉球処分)という大問題があった時代、尖閣諸島に拘る理由は日中共になかった。で、日清戦争の真っただ中で尖閣を編入した。
・日本は尖閣については国際司法裁判所の判断を仰ぐことを拒否しているが、竹島では主張している。これはダブルスタンダードと言われればその通りと言わざるを得まい。ちなみに「棚上げ」論は日本に有利なものである。アメリカは中立を気取っている。仮に中国が「侵略」した場合、尖閣奪還のプログラムが議会の承認を得られるかどうかは疑問である。
・米国が参戦した場合、沖縄が核戦場になる可能性がある。ダマンスキー島の紛争で核戦争が準備されたことを思い起こすべきである。
・日本の「ナショナリスト」の醜さ。中国との戦争をフレームアップしかねない状況を作りながら、アメリカの軍隊をあてにする。そして、米国への限りない従属を深めていく。何度でも書く。暴力は絶対的なモノなのだ。「ナショナリスト」は軍事への覚悟を本質的に持ちえない状況なのに、このような病的な卑小さを持ち合わせている。
・日本の「ナショナリスト」はアメリカの軍産複合体の利益のために犬馬の労を取っていると言わざるを得ない。石原の挑発的会見の席はヘリテージ財団が設定。
・北方領土問題。吉田茂政権はサンフランシスコ条約にある千島列島放棄の条約を飲んでしまった。そして一九五六年の日ソ共同宣言。(ちなみに人類史に残る犯罪であるシベリア抑留に対する賠償権も放棄されているね。)戦勝国ソ連は「歯舞諸島と色丹島を(お情けで)返してあげる」という論理を出す。未だシベリア抑留者もいたし、平和条約締結のために時の鳩山一郎政権は受け入れざるを得なかった。しかしここで「ダレス恫喝」ですよ。「そんな条約結んだら、沖縄を永遠に返さないぞ」と。
・まとめると、アメリカはサンフランシスコ条約で千島列島放棄を日本に強いておきながら、それに則った条約をソ連と結ぼうとすると「お前の持っていないものを他人に譲ることは出来ない」という無茶振りを行なったのである。まんまと乗せられた日本人は、ソ連に敵意を持ち続けることになる。
・当然のごとく、沖縄と米国VS歯舞とソ連を選択するという枠組みでは、日本は沖縄と米国を選択するしかなかった。アメリカとそれに従属する日本の保守政権は、北方領土問題は解決されないことが望ましかった。かくして「北方領土四島返還」を口走るようになったのだ。
・ソ連崩壊にも関わらず、日本政府は「四島返還」を未だに口走り、自縄自縛に陥っている。択捉・国後島は千島列島には属さないという詭弁。「固有の領土」は世界に通用しない言葉である。ご都合主義の正当化のための言葉だと著者は斬って捨てる。
・もし本気で四島返還を言うならば、サンフランシスコ講和条約を否定しなければならない。だが政府はそれを直視せず「敗戦の否認」に逃げている。
・背景にはソ連成立時の弱みにつけ込んだ日本、日本敗戦につけ込んで残虐非道の数々を行なったソ連、ろくでもない両者の歴史がある。国家の言う「正義」なんかはこんなものである。弱みにつけ込んで「固有の領土」といいなすのは、朝鮮半島や中国に対しても同じである。(国際法はそれへの追認に過ぎない。だから、問われるべきは国際法そのものであると小生は思う。)
・竹島問題。サンフランシスコ講和条約において竹島放棄はない。確かに米帝傀儡李承晩の不法行為により竹島は韓国が実効支配している。だが、これも問題は「力づく」の歴史的経緯である。
・竹島が日本領になったのは一九〇五年。一九〇四年に第一次日韓協約が結ばれていた。これは、大韓帝国は外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理されなければならないと規定されていた。日露戦争の影響で大韓帝国は日本の占領下にあった。そういう状況で大韓帝国は竹島の領有権を主張できたであろうか。要は、日本による竹島領地化は力づくのことであり、韓国側に恨みを抱かせるものであった。とまあ、これは韓国側から見た話。
・日本側から見たら決定されていない領土の確定であり、それは「国際法」に則っていたものであり、日韓併合に至る歴史とは関係がない話である。
・韓国と中国の領土問題に対する日本のダブスタを解決するには、ポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約と真正面から向き合う必要がある。そこから逃げていた戦後は終わっている。日本は最終審級=戦争に踏み出さざるを得ないのであろうか?
・拉致問題。日本が北朝鮮問題において、国際的な発言権は低下している。いや、無化している。プライオリティーが国際社会とズレているからだ。韓国や中国は日本以上に拉致の被害者であるが、核兵器とミサイルの問題を優先している。ではなぜ日本は拉致問題を上に置かざるを得ないのかが問題になる。
・小泉訪朝・国交正常化交渉・平壌宣言の段階で日本は必ずしも拉致問題を最優先にしていたわけではなかった。が、国内世論の沸騰により最優先せざるを得なくなった。その後の北朝鮮の数々の嘘もそれに輪を掛けた。こうして「拉致問題の解決なくして日朝の国交正常化はあり得ない」という立場が形成された。
・北朝鮮は平壌宣言を重要視する。経済援助の項目があるからだ。これは植民地支配への事実上の賠償でもある。(ちなみに日韓基本条約ではこのような「お詫び」はなかった。)そして同時に正式な賠償金を断念することである。ここで北朝鮮側からすれば日本の面子を立てたことになる。
・北朝鮮は平壌宣言で「拉致問題は解決済み」と考えたが、日本からすれば出発点であった。ここに行き違いがある。産経新聞の「再び、拉致を追う」では次の文がある。
「小泉さんは拉致のらの字も分かっていなかった」
訪朝直前に小泉氏と拉致問題について話した政府高官はこう証言する。拉致問題に関心が薄かったのは小泉氏だけではない。
「(拉致された)たった一〇人のことで日朝正常化が止まっていいのか」
これは一一年一二月、アジア局長に内定していた槙田邦彦氏が自民党の会合で言い放った言葉だ。
(p107)
・ついでに言えば、田中均が「国賊」呼ばわりされても仕方がない面があると小生は思う。彼が拉致の重要性を分かっていたのか、と思う。
・プライオリティーの変更という重大な問題を外務省は内外に説明していない。これが日本政府側の問題。筋を通すならば日朝平壌宣言の破棄をするべきである。だが、しない。著者はここに「敗戦の否認」を見る。
・日朝平壌宣言の破棄は「水に流す」式の日本の戦後処理の方法の否定であるので政府は踏み込めない。
・安倍晋三氏が「本人たちの希望ではなく政府、国としての判断として五人を日本にとどめ置くと決断した」と書いてある。例外状態(カール・シュミット)での決断をしたという点で、安倍氏は傑出した政治家と言えるのではないか? 俺がレーニンを支持することとかぶる。
・そしてそのような安倍氏がしたということは、「戦後」が終わったということになる。なぜならば「例外状態」=「戦争状態」だからだ。(今の日朝交渉は和平交渉だな。)
・もう一つ見なくてはいけないのは、これらの交渉がアメリカの頭ごなしにやられたことである。(それに対するアメリカの恫喝は、孫崎享氏の『戦後史の正体』に詳しい。)船橋洋一氏は「拉致問題に怒りながらも、なぜ、大多数の日本の国民がこの間、一貫して日朝国交正常化を支持したのか。おそらくその答えのある部分は、小泉の対米自主外交のスタイルにあったかもしれない。」(p114)というが、これが本質だろう。
・また、拉致問題は日本人が戦後はじめて被害者になる事件であった。「加害者呼ばわり=敗戦」ということから目を逸らせられるという点で「敗戦の否認」の構造が現れよう。
・北朝鮮はそれまで、一切の交渉を日本と行わずに、小泉政権のときに「植民地支配=謝罪+経済援助+拉致被害」という定式による等価交換を要求した。日本はそれを拒否した。「予め日本の敗戦」が決まった要求だからだ。
・中国、韓国に対して行ったような「お金による」解決を結果的に日本は拒否した。平和を金で買ってきた日本がはじめて拒否したのだ。それもまた戦後の終わりを示すものであろう。それは、自らが被害者の時に筋を通し、加害責任に対しては金で解決するというダブルスタンダードでもある。
・と、同時に、上の定式の拒絶は戦後が続いていることをも示す。受け入れることは戦後の国是(敗戦の否認)を揺るがせるからである。
・安倍首相は言う。憲法九条がなければ拉致はなかった、と。そうだろうか? 中国や韓国のみならず、北朝鮮による拉致の被害者は数多くいる。安倍の狙いは「敗戦の否認」の貫徹・完成である。
・「戦後」は実質的に終わったが、終戦直後からの権力者の系譜が居座ることにより、「戦後」は継続している。このアンビバレンツを打破するのは、外からの圧力か、国民の力かが今や問われる。
第三章は「戦後の「国体」としての永続敗戦」と題して。
・戦後日本はアメリカの時代であったことは言うまでもない。政治、文化、スポーツ、などなど。本書では「政治の側面から考える際の問題の所在を明らかにする」に留まる。
・反米感情が情緒的なものに留まるならば、無害である。なぜならば、日本社会が内在的に抱えている病巣を直視しないための格好の口実になるからだ。
・左右両陣営によって行われた戦後の歴史評価の最大の問題点は「道徳の言語」で行われたことと著者は言う。「国家は本質的に道徳的ではあり得ない」ことを著者は指摘する。それに自覚的だったのは江藤淳。彼の批判は検閲システムの存在に無自覚なまま「戦後民主主義」を支持した者に向けられた。「検閲によって統制されたかたちで始まった戦後民主主義が、正義の基礎、戦後日本の思想的基盤であることなどあり得ない」(p125)と。また、検閲をしたアメリカは自国の利益のために行なったに過ぎない。
・天皇を延命したのもアメリカの利益故。戦争責任の論証は(著者の本当の意図としては「恐らく現状では」)無意味。天皇の延命が打算に過ぎないことを理解しない保守派はナイーブで、それを理解しても打算が国家として当然の行為であることを理解しない左派もナイーブ。
・憲法九条を巡る話もねじれて相同。左派が嫌がる話。「「世界に冠たる平和憲法」は、「原子力的な日光の中でひなたぼっこをしていましたよ」」というホイットニー准将の脅し文句とともに突き付けられた。
・ニューディーラーの「理想主義」が日本に突きつけられたのは、日本が二度と米国にとっての軍事的脅威にならないためという米国の国益のためであった。
・先に書いた韓国・台湾を犠牲にしたうえでの「一国平和主義」はこの打算を左派が見ないことによって、左派によって肯定された。
・保守派は歴史的過程を理解していても、一国平和主義に代わる国際的視線に堪えるものを検討しなかったし、出来ない。(詳しくは後で)
・かくして左派も右派も欺瞞を抱え込む。どちらもアメリカのせいにしてはならない。国家とはそういうものだからだ。「問題は、われわれの側に、永続敗戦の構造をつくりあげてしまった日本社会のうちに存在するのである」(p129)
・TPPに見られるようにアメリカは日本の経済的収奪を強めている。米国にとっての日本は無条件的な同盟者ではあり得ない。農産物自由化を叫びながら自動車の非関税障壁をあげつらうアメリカを見よ。おい、ドイツ車は日本で売れてるぞ! 既に大抵の関税はゼロであることを考慮すれば、アメリカの要求は日本の社会システムの破壊である。
・かつてのBIS規制に見られるようにアメリカは自分たちに都合の良い「ゲームのルール」を設定して市場の独占を目指すのである。これが彼らの言う「自由化」の本質である。
・中国の伸長という時代にあり、アメリカはオフショア・バランスを選ぶ。日中の間に楔を打ち込み、日中が親密にならないようにする。国家として当然の選択である。日韓、日露然り。
・そんな状況で「日米同盟の強化」しか言えないばかりか、それを嬉々として進める勢力が日本で権力を独占していることが問題だ。
・対米従属の病理は狂気に達している。外務官僚に「日米外交の達成目標は何か」と訊いたら、「日米関係のゆるぎない紐帯」だと答えるほどに。(『尖閣問題とは何か』豊下楢彦著) 手段を目標にしてしまっている。家畜人ヤプーの世界だな、ここまで来ると。
・この屈辱的な状況は自動運動的に続いている。それは、日米開戦が「ただ成り行きでそうなった」(東京裁判での軍部指導者の言葉)ことと同じじゃないか。
・対米対等は、岸信介、池田隼人らも目指していたが未だ実現していない。これは実現しないということではないかと著者は言う。シニカルだ。「非核三原則」「沖縄の核」のように。そして対米従属の欲求不満はアジアにぶつけられる。
・戦後、本当の意味で主権国家たりえたのは米ソのみであった。これに気づいたのは保守派では福田恒存のみであった。福田は憲法九条を改訂しても、主権は回復されないと見抜いていた。
・アメリカの戦略に主体的に関わることで、アメリカへの発言権が増す=日本は米国から自立できると「戦略的親米家」は言う。それってまるで「凡庸な悪」(アーレント)の論理じゃないか。著者は「ベトナム戦争に日本が大きく巻き込まれなかったのは、押しつけ憲法と社会主義政党が力を持っていたからじゃないか」と指摘する。
・「アメリカの言いそうなことへの言いなり」段階に日本のエリートは来てしまっている。これは、複数の参加国が鎬を削る国際社会において日本の立場をなくする行為であり、亡国行為である。
・再度福田恒存。アメリカは国益に忠実なだけ。韓国に軍事的脅威を押し付けた上での平和。安保ただ乗り。軍事独裁である韓国を批判する資格が日本にあるのか?こういう批判は傲慢ではないのか?
・この福田の論考はとても鋭い。韓国の「非民主主義的体質」をいい気になって批判していたら、いつ同じ批判の刃が(米国から日本という非民主主義的体質に)アメリカ側から吾々自身に向けられて来るか解ったものではない」と指摘する。最近の安倍首相への冷淡さはその予兆ではないか。
・現在の保守政権は戦前からの連続性(人脈および価値観)を維持しつつ、アメリカによって支えられているというねじれを有する。このねじれは自民党結党時の綱領的文書に典型的にみられる。
・すなわち、自由と民主主義なるアメリカ的なものを称揚する一方で、これらにより国家観念と愛国心は不当に抑圧された、と。後者の「反米」的要素についてアメリカは今まで口を挟まなかった。だが、様々な要因により、そうもいかなくなっているようだ。安倍(や田母神)の本質は反米であることをアメリカは見抜いているしね。
・安倍の日本がフセインのイラクやビン=ラディンのアルカイダのようにならないとは限らない。利用するために甘やかし、付け上がってきたならばアメリカは容赦ない。が、日本にそんな覚悟はないであろう。日中の緊張が高まった時、アメリカは日本を見捨てる可能性が極めて高い。
・自民党の中にも敗戦から目を背けてきた現実を見ようとする人はいる。例えば石破茂。「あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは」戦死者に対する冒涜である、という。(p153)
・問題は「安倍総理主導のもと」と主張していること。そんなことは空想だと著者は言う。だが今は切迫している、とも。のんべんだらりと目を逸らしてきた。どのようにそれが続いてきたこかが問われよう。
・続けられた最大の理由は日本の経済力。だが主として中国の経済力の成長により脅かされている。今やアメリカの「核の傘」の下での「非核三原則」に見られるようなシニシズムは清算が突き付けられ、「「平和主義」や「不戦の誓い」」という建前と、「「好機としての戦争」や「核武装」」という本音が鬩ぎ合っている。というよりは、後者が優勢になっている。左派やリベラルはこの問いから逃げてきた。問うこと自身が支配勢力の本音による解決に道を開くからだ。
・本当ならば左派は実利主義に過ぎない平和主義を清算すべきだった。だが支配的権力が頽落している状況では回避した。(上のような「答え」に帰結するから)そして思考停止に陥った。
・イスラエルは核兵器の悲惨を理解しているがゆえに「他国から核攻撃されないよう進んで核武装する」。日本の左派でそれを公言していたのは故・青木雄二くらいか。
・平和主義や反核兵器の理念の内実を問い直すこと。極端な話、核武装の可能性を考えること。それなくしては反核兵器の思想は衰弱するであろう。「非核三原則」を推進したのは保守でもあったことを考えなければならない。国民を騙すために。沖縄核密約を忘れてはならない。
・アメリカは恨みを買いたくないから沖縄への核持ち込みを強要したくなかった。日本人が納得した上で行いたかった。そして日本政府は「納得」したが、国民には説明しなかった。嘘と欺瞞の空中楼閣を作り上げた。
・敗戦の責任から逃避してきた連中やその後継者に国防への責任は言及できないし、資格はない。一方、彼らの建前に寄り添った「平和主義者」は共犯者である。
・「中国人民抗日戦争記念館」のノートには中国人による「恥」という文字が最も多い。一方、日本のナショナリストは原爆投下を「恥」とは感じていない。核投下に至らせた政府は日本の恥であるはずなのに。
・ワイマールドイツの歴史を参考にするならば、経済的繁栄が衰退した日本において、日本人の核に対する態度がどうなるか? 建前は崩れ去るのだ。
・さて。日本が素寒貧の貧乏に戻るならば、「国体」が露わになるであろう。敗戦を否認することで生き残ったものだ。ポツダム受諾の条件が「国体の護持」であった。
・久野収と鶴見俊輔は明治憲法レジームでの天皇制を「顕教と密教」に例えた。国民統治としての顕教(神聖にて侵すべからず)と、明治の元勲たちは天皇に実権を持たせなかった密教(立憲君主制)。このことを理解していることこそが、国家エリートの資格であった。
・それは、大正・昭和と進むにつれて崩れていった。顕教的部分を密教的部分が侵食したのだ。大衆向けの方便の論理に自らが絡め取られた。(リベラル=資本家の代表たる)政治家よりも、軍部のほうが「天皇親政」を体現しうる勢力として国民の期待を集める。
・そういう文脈の上に、天皇機関説批判がある。(一九三五年、国体明徴声明)そして「御前会議」、「ポツダム受諾」という形で「天皇親政」は実現する。同時に崩壊する。だが戦後、姿を変えて「天皇制」は生き残った。
・戦前のレジームの根幹が天皇制なら、戦後は永続敗戦である。「永続敗戦=戦後国体」。明治の二重性の機能はどう変化したのか? 「敗戦」の消化・承認において、である。
・「顕教」としては敗戦の意味が可能な限り希薄化するように。敗戦ではなく、終戦であるという言い換えが象徴的である。「密教」こそが対米関係における永続敗戦=無制限かつ恒久的な対米従属というパワー・エリートの志向である。彼らは今や屈従していることを自覚できないほど、敗戦を内面化している。
・顕教的次元を維持するならアジアに対する敗北の事実を否認しなくてはならないが、相対的に経済力が弱くなった今、それは不可能になりつつある=永続敗戦レジームは耐用年数を終えつつある。
・それは顕教的部分による密教的部分の侵蝕である。顕教は「アジアには負けていない」という刷り込みであったが、それが夜郎自大のナショナリズムとしてアジアに向かっている。密教の担持者はその危険を理解しつつも、食い止められない。なぜならば、顕教を刷り込むことで戦争責任を回避した流れにあるからだ。顕教を否定すれば、政治的正統性を否定することになる。
・著者はマルクスの「歴史は反復する、一度目は悲劇として」という『ブリュメール一八日』を引用するが、事態はもっと情けなく醜い。というのは、戦前は日本の主体が感じられたが、戦後は主体が感じられないからだ。
・とまれ。もっとエゲツナイことを言う。ヘーゲルの『歴史哲学講義』には「偉大な出来事は二度繰り返されることによってはじめて、その意味が理解される」とある。ならば、「国体」は二度死ぬことで、その意味を理解できるのではないか、と。
・「平和憲法」と「天皇制の存続」という永続敗戦のセット。それに対する昭和天皇の積極介入。天皇が共産革命に怯えていたことは今やかなり論証されている。米軍の日本駐留は了解事項としても、吉田茂は朝鮮戦争を背景にアメリカに「駐留させてくれ」と言わせるつもりだったが、昭和天皇はダレスに「駐留してくれ」と希望を言った。先に言ったほうの負けである。そして沖縄は捨石にされた。
以下京都大学伝説の歌集『前転』より
君が代は千代に八千代に そりゃそうだ 沖縄売り渡したもの
そしてこの天皇制の捨石としての沖縄は、現在も日本の七三%の米軍基地が集中することにより、捨石にされている。沖縄の保守から沖縄独立論めいたものが出るのも当然だ。沖縄にとって、天皇制は敵である。そして、システムが機能する限り、政治の本流は常に保守なのだ。
・さて、昭和のヒーロー三島由紀夫。彼は「などてすめらは人となりたまいき」と言って昭和天皇を断罪した。「平和と繁栄」の欺瞞の下の高度経済成長の日本社会の精神的退廃の元凶を昭和天皇の戦争責任に求めた。(『英霊の声(←旧字体)』)
・里見岸雄に言及して片山杜秀は「犠牲を強いるシステムとしての国体」と言った。
・利益社会の原理からは戦争や天災における自己犠牲は出てこない。そこで日本の場合は国体が持ち出される。(理路を日本人に説明する必要はなかろう)君臣一体の「感激」が動機となる。
・敗戦で打撃を受けたのはこの「感激」である。少年海軍兵・戦艦武蔵の生き残りの渡辺清は昭和天皇とマッカーサーの有名な写真を見て「天皇帰一の精神もいまは無残に崩れてしまった」(『砕かれた神』)と書いた。大人たちはアッケラカンと敗戦を受け止めた。(そのショックは、河原宏氏の本に詳しいだろう。)ということは、そもそも少年兵世代を除いて「感激」などはなかったのである。
・片山杜秀は「感激」の破壊された日本に「とてつもない空白がある」という。自己犠牲を命じる国家は既にないのだ。(「身捨つるほどの 祖国はありや」という寺山修司の詩を思い出す人も多いだろうね。)
・かくして祖国日本は、「空白」を埋める術を持たず、波高くなる国際社会において再軍備や核武装を欲する(戦後レジームの否定)と同時に、リアルポリティックスから対米従属=永続敗戦は強化されるという矛盾を強めるのである。
・敗戦でも「国体護持」はなされた。というか、「国体護持」のためにこそ敗戦が選ばれたのである。共産革命を恐れたのだ。(近衛上奏文に言及した『日本人の「戦争」』(河原宏著)に詳しい。そしてこの本から引用されている。)
・敗戦直前の天皇にとって「国体を否定する者=共産主義者=左右を問わない革新論者」であった。ちなみにそれに沿った愚かしい言説が、本屋やネットで流れている。
・河原宏氏の言葉を書こう。「「革命」とは、究極のところ各人が自主的決意と判断によって行動するに至る状況のことだったのではないか」。ならば、日本共産党のごときは革命政党ではないな。否、共産主義者は革命家たる資格があるのか?
・カーチス・ルメイに昭和天皇が勲章を与えた意味が見えてこよう。原爆投下により、敗戦受け入れの口実が出来、国体護持の理路が出来たのだ。そして日本とアメリカの共犯関係はこの時点で決まったと言えよう。
・ここまで来れば明白であろう。戦後レジーム(永続敗戦)は行き詰まった。それは打破されなくてはならない。それは日本人主体の手によるならば革命なしでは済まないだろう。今、そこにある「国体」の否定だからだ。そのためには「各人が自らの命をかけても護るべきもの」を真に見いだすことである。その革命は、「革命派」に扇動され、指示されるものでは決してないであろう。招き猫同志が言う「隣人血まみれ」の総括的行為であろう。それがなされないならば、特にアジアからの力で強制的に破壊されるであろう。アメリカは日本の共犯者ではあるが、直接には手を下さないのではないかな。
エピローグから。
・ベルリンには「対独戦戦勝記念碑」があり、敗戦が「眼に見える形で」存在する。
・言うまでもなくA級戦犯合祀は敗戦の否定であるとアメリカはじめ戦勝国には見え、日本は敗戦を受け入れていないと考える。
・東京大空襲で多大な犠牲者が出た新宿のションベン横丁で無邪気にアメリカ人を歓迎する日本人。ムズムズするような不快感。歴史に対する無自覚が覆う日本。あるいは空爆を「天災」の如く捉える日本人は「戦争に負けた」歴史を認めていない。これでは戦争への反省も抵抗もあったものではない。
・アラブ人は日本に敬意を払っている。第二次世界大戦でアメリカと戦争したからだ。アルカイダが日本を標的にしなかったのはそのためだと他の本で読んだ。だが、イラク戦争に参加したことは広く今や知られている。そのこともあり、日揮の社員は狙われた。
・(おまけ。恐らく新たなる日本の戦争は、アメリカの利益のための戦争になり、そこで少なからぬ日本の若者は生命を落すことであろう。それを突破できるのは、恐らくは革命しかあるまい。平和的に政権を握るであろう革命派と雖も、このおぞましい永続敗戦スキームを打破するには、対米#戦争#を覚悟しなくてはなるまい。その覚悟と正統性は日本の革命派にあるだろうか。人の命を捨てさせる覚悟と正統性が。ま、日本共産党には無理だな。)
んでまあ。著者の生真面目さに対する一つの突っ込みは、河原宏氏へのこの言葉かな。「日本人は「近代」を憎んでいたのである」。だから、「永続敗戦」なる明治維新後のことどもも、日本人は心底軽蔑しているのだ。その態度がいかに危険であるにしても、である。明治維新後の「政治」は多くの日本人にとって「他人事」であり、たまに日比谷焼打ちや60年安保のように政治的に日本人が行動することがあっても、政治そのものへの軽蔑、あるいは忌み嫌う感情こそが「永続敗戦」を可能にしていたのではないか、と。左右の共犯が可能になった条件として。
とりあえず外交の重責を担うことになったやっちゃん(中山泰秀氏)にこの本をプレゼントしよう。政治を軽蔑するわけには彼はいかないからなあ。
主な関連文献
加藤典洋『敗戦後論』
大岡昇平『俘虜記』『レイテ戦記』
豊下楢彦『尖閣問題とは何か』

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