読書メモ:『近代の呪い』
『近代の呪い』(渡辺京二著、平凡社新書=700)
近代は当面乗り越え不能である。人類の生存条件を拡充したのは近代というシステムである。西洋発祥のこの成果は、人類共通の資産である。と、同時に、多くの抑圧を齎した。国民国家を生み、それに住民が統合されることで国民国家の競争力は強化され、共依存するとともに激しく競争し(インターステートシステム)、時には戦争という形で敵対する。それに無関係を決め込むことはもはや出来ない。世界政府という構想は国家の本質を無視しているがゆえに実現不可能。国家は「排他」の上に成り立つ。国家はオートマトンに「己の強さ」だけを求め、他を破滅させようとするほんしつがある。豊かさの追求は地球という自然を食いつぶし、人類を破滅に追い込みかねない。近代は二つの破滅に直面しているという呪いをもつ。近代はフランス革命によって起こったとされるが、そのメンタリティーは極めて「反動的」とも言える。理性主義は個人主義と対立し(ルソーの一般意思)、近代の原理の別の側面を否定しているからだ。その理性主義は、後の共産主義革命のおぞましさに引き継がれ、中国共産主義の反人道的な政策の「合理化」に利用されている。
で。この本はとても大事だと思うので、ちょっと細かく。
第一話は「近代と国民国家」と題して。
・日本では歴史を近代と近世を分けている。近世においては「お上」の行う政治は庶民のあずかり知らぬことであった。よって、維新期のテロについて庶民は「他人事」であったし、坂本竜馬が自覚したような国民意識、国家意識なんかなかった。維新後の西南の役でも同じである。
・近世においては民衆は民衆で権力から自立した世界を作り、そこに生きていた。それを破壊して生まれたのが近代であり、国民国家である。近世では国家と庶民の間に宗教団体やギルトなどの中間団体があった。それは既得権と結びついていた。
・近代が進むにつれて、差別排外主義や民族浄化の大虐殺が起きるようになる。それは国民国家が利己的に振る舞わざるを得ないからである。国民が直接、世界の情報を得ることが可能になったから、恐怖の対象は世界大になってるという面があろう。
・近代は国民国家とともに。国民の運命は国家とともに。国益が何よりも優先する。国家による包摂は進み、専門家=知識人を国家はますます必要とし、管理と抑圧は進む。「平等」を担保しようとすればするほど。その究極が共産主義国家である。かつての人間同士の関係性は「福祉」などで国家に包摂される。
・反国家主義を標榜しても、上のような次第でそれは(今のところ)不可能である。
第二話は「西洋化としての近代――岡倉天心は正しかったか」と題して。
・西洋化=近代化は世界を包摂する。カウンターさえも。世界中の人々が西洋に「よい」もの、「強い」ものを見たからだ。だから、西洋文明に対立する形で東洋文明などを掲げても正しくない。岡倉天心(アジア主義の一部)はその意味で間違っていた。
・もし批判するとすれば、西洋化=近代化が齎した成果を認めつつ、それを乗り越える道を模索しなくてはならない。しかしそれは乗り越えであって、西洋化の即自的な否定ではない。
・バーンスタインの『豊かさの誕生』。近代化が経済成長を齎したが、その条件は「私有財産制の確立」「科学的合理主義」「効率的資本市場の成立」「移動・通信手段の進歩」。世界の経済化を進めた。
・実は東洋にもあった「自由」「人権」「平等」。だがそれを社会的価値として定着させたのは西洋近代のみ。このあやふやで矛盾に満ちた宝物は人類共通の財産である。
・科学もまた西洋近代の産物。科学者は世界中で共通の言語で思考する。数式など。普遍的なものは特殊性の中から生まれ、「よい」とされて共有されて普遍となる。
第三話は「フランス革命再考――近代の幕はあがったのか」と題して。
・歴史修正主義という言葉は現在否定的に用いられる。だが本来はフランス革命への突っ込みで生まれ、フランス革命観を大いに変えたものだ。すなわち、肯定的な言葉なのだ。
・ちょっとパリ・コミューン。大仏次郎の大作『パリ燃ゆ』が有名。その大仏は『ドレフュス事件』を書いて当時の日本の軍国主義批判を行なった。彼は戦後『パナマ事件』を描き、反ドレフュス派の心情に理解を持っていたようだ。第三共和政は賛美し擁護すべきものではなかった。その上で『パリ燃ゆ』は書かれた。著者(渡辺)はその研究からフランス革命をしっかりと理解しなくてはならないと考える。「本当に近代の発端だったのか」と。
・かつてフランス革命は「近代ブルジョア革命」と見なされた。だが今ではその観方は否定されている。革命家には典型的なブルジョアはいない。(主力は有象無象=プロレタリアート、とは別の本からの知識)
・王政は強固な地域ボス=貴族の頑強な抵抗を打ち破って伸長してきた。逆に言えば貴族は絶対化しようとする王権に抵抗してきた。ゲルツェンは貴族支配をロシアにおける民主主義発達の起源とするほど。
・アンリ四世はカトリックとユグノー派共通の王。ユグノー派は「暴君は人民に追放される」と主張。人民抵抗権はフランス革命の二百年前に言われていた。
・貴族の抵抗を抑え込んで絶対的専制君主として国王の地位が確立したのがルイ一四世の時代。とはいえ貴族の反乱は続き、パリ市民も加担することがあった。なお、「絶対」と言っても、貴族団体、教会、自治的な都市、村落共同体、職人ギルトという社団(中間団体)があり、それは国王から特権を認められていて、特権こそが自由であった。国王とても侵害できなかった。
・だが、国際情勢に対応するには王権は中央集権化を進める必要があった。(官僚制の整備と常備軍の創設)貴族や社団の自由は国家を損ねていた。イギリスにヘゲモニーを奪われるほどに(ルイ一五世の時代)。そのくせ、国家的威信が失われたことが貴族やブルジョアのトラウマとなり、王制の権威が根底的に揺らいだ。
・ルイ一六世は決して無能ではなかった。経済学で名前が出る重農主義者テュルゴーなどを登用して財政改革を行おうとする。きっかけはアメリカ独立戦争支援の借金対策で、全国統一市場など、フランスの均質的統一を目指すものであった。言論・出版の自由も含まれていた。貴族はそれに反対した。
・貴族には大別して二つあった。古くからの武家貴族と新興の法服貴族。後者はブルジョアが購入した身分。高等法院は彼らの牙城で、王に反対する道具であった。とはいえ、才覚のある武家貴族は工業資本家になっていた。一方、武家貴族は封建的領主制は虫の息であったが、既得権で貧農なみの生活水準を維持するしかなかった。この状況で国王政府は財政改革=土地を対象とする新税徴集=貴族特権の否定を行なおうとした。高等法院を用いて貴族は反抗した。マリー・アントワネットや国王に関するスキャンダラスなデマを信じてきた第三身分=庶民は国王を腐敗と堕落の象徴と認識していたこと、彼らも「特権」が付与されていたことなどから、貴族に合流した。税制改革は第三身分まで含めた会議=全国三部会の合意が必要と貴族は訴え、国王が応じる。革命の狂乱の幕は切って落とされた。理性に徹するならば、革命の必要は全くなかった。イギリスのように。国王は進歩的側面と反動的側面を有していた。
・高等法院の構造では第三身分は1/3の勢力であった。第三身分は改革を叫んだが通らず、高等法院は民衆の罵声を浴びることとなる。第三身分は国民議会を宣言する。聖職者がそれに合流する。聖職者は貧農同様の生活をしていたから。そこにミラボーらが合流する。ルイ一六世は他の貴族らにも合流を命じる。フランス革命ははじめ、立憲王制を目指した。国民議会は貴族や社団の特権廃止を熱狂的に決議する。何たる逆説! 王政の狙いが国民議会で実現するとは! そして農民は共同体を失い、職人はギルドを失った。
・革命期に良くあることだが、極左はさらなる極左にとって代わられ、そのたびに古い極左は処刑され、そして、大反動に至る。祭りは祭りでも血祭りなのが革命だ。革命の原動力は「モラル・エコノミー」、すなわち「ダメな王は追放しろ!」である。このメンタリティーは反近代であり、全く理性的ではない。「理性の革命」は非理性で突き動かされた。
・一切の利己心の否定=公共善の実現が理性とされた。理性による新しい社会の創造。それは自分を国家に対して透明にするということである。根拠はルソーの『告白』。だが、近代市民社会は個人主義。対立しないはずがない。革命に熱心に参加しない者は疾しい奴ら=反革命。ダントンはそういう人を擁護しようとして断頭台に送られた。
・この理性主義のおぞましさは『われら』(ザミャーチン)、『すばらしい世界』(ハックスリ)などで表現される。ロシア革命で「実現」する。
・だが、と小生は思う。ギロチンによる粛清は、「共通の前提」を要求する民主主義の本質ではないのか、と。
・そういう次第で、フランス革命は自由も人権も無視した。後の共産革命の血塗られた歴史は、ロベスピエール由来の理性主義ゆえである。「(19世紀)科学的社会主義」=「理性主義」=「反人権、反自由」=「反革命」という等式が多分成り立つ。
・ヴァンデ地方の農民は、革命政府への兵士供出を拒否して闘った。鎮圧は皆殺しとなった。良いヴァンデ人も悪いヴァンデ人も皆殺しにしろ! 皆殺しは、まつろわぬ大衆への、革命の論理である。
・フランス革命は中央集権主義で国家の均質化を貫徹した。僧侶上がりの革命家グレゴワールは「一つの言語を話す一つの国民」を訴えた。国民国家の創出はナポレオンの課題であった。革命の輸出という戦争によってそれを成し遂げようとした。
・著者は理性主義の傲慢を戒める。一方で、理想主義の必要を認める。ロベスピエールはテルミドール反動という現実主義の勝利の前に「悪人どもが勝った」と叫んだ。著者はちょっとだけロベスピエールに同情的だ。
第四話は「近代のふたつの呪い――近代とは何だったのか」と題して。
・近代のプレゼント。それは人権・自由・平等。とはいえ、領民の生活安定に封建領主は心を砕いていたし、上に書いた中間団体で自由は一定保障されていたし、「士農工商」は職業の存在意義を訴えたもので、これらは実は並列的であった。武士は農民や商人からもなれた。才谷屋(坂本竜馬の家)を思い起こすべき。ちなみに小生の母方の祖先は島津藩に愛想を尽かして武士を辞めた。武士は政治的権限があったが、町人には「武士何するものぞ」という気概があった。形式上の上級者が下級者に気を遣う社会でもあった。一概に今のほうがいいと決めつけられるものではない。
・民主主義という政治制度の根底にあるのが人権・自由・平等。脆くいかがわしいが他がない。
・近代のプレゼントで最も大きいものは生産力(衣食住の豊かさ)。世界大の市場経済がそれを可能にした。だがそれは民衆を国家(国益)と不即不離にし、際限ない競争に巻き込んだ。「敗者」はナショナリズムに救いを求め、ますます増える「敗者」によりナショナリズムは強化され、民族(国民)国家の枠組みを強化している。(第一の呪い)
・経済の発展は大量生産・大量消費を可能にした。自然への収奪が強まり、今や自然の存立条件を損ないかねないほどになった。また、都市は整然とし、猥雑さ=自然さを失いつつある。世界は人工化している。(第二の呪い)
つけたりとして「大佛次郎のふたつの魂」と題して。
・『ドレフュス事件』を書いた時の大佛次郎の立場は進歩、理性、国際主義。すなわちわかり易い左翼。
・『ブゥランジェ将軍の悲劇』は昭和一〇年の作品で、日本の軍部の国政干渉とそれを支持する国民の気分への批判を描いている。ブゥランジェ将軍は第三共和制打倒を目指す民族派の政治家だが、ストライキ鎮圧を要請されたとき「フランスの軍隊は労働者とパンをわかちあうのだ」と言って拒否するような民衆派でもあり、王党派を軍から追放する共和主義的姿勢も有していて、大衆的人気が高かった。ブーランジスムという言葉があったらしい。そこには左翼も参加した。クーデターの前に女性の後追い自殺をしちゃうように政治家の器ではなかった。ちなみに第三共和制は腐敗していた。
・『パナマ事件』では第三共和制の腐敗を暴いた。批判したブーランシズムの正統な根拠を。レセップスによるスエズ運河開削から話をはじめ、パナマ運河開削のための資金集めで生じたパナマ疑獄に話は至る。ドレフュス擁護は、パナマ疑獄の収賄者の復権運動のように国民に受け止められたので、反ドレフュス派は勢いを持ち得た。進歩的たる権力の腐敗! 国民の怒り!
・『パリ燃ゆ』は言うまでもなくパリ・コミューンの話。「第三共和制はパリの庶民たちがコミューンという形で希求した自分たちの社会の夢を圧殺することによって成立した」(p170)
・ブルジョアジーの私利私欲の世界が第三共和政であった。大佛次郎はこの小説で、進歩、理性、人類普遍の理念では決して割り切ることのできない歴史の深淵に降りていったと著者(渡辺)は言う。
・戦後民主主義的価値観からは、「(ドイツに対して)すぐに講和すべきだ」となるはず。パリ・コミューンの兵士たちは違った。祖国愛、それは、「ブルジョアや貴族の支配を脱して、自分たちの共同世界を築こう」というものであった。この愛はドイツやそれと妥協する者たちとの戦争を意味した。
・これは愛国主義的であり、その面では国民国家に絡め取られた民衆の姿である。だが当時に、搾取も抑圧もない人類愛的なものでもあった。この闘いはカオス(祝祭)であった。大佛次郎はこの祝祭と連帯した。民衆の正直さ、けなげさ、そして情熱と。その象徴が、この作品ではブランキーである。
・一旦バリケードが出来上がると、当たり前のように守りにつき、死んでゆく人々がいた。彼らは時代によっては反動的なブーランシズムに熱狂し、反ドレフュス派でもあったろう。「民衆は仲間との共同的な生活につながれて、そこでみちたりて生き死にする存在」(p178)なのだ。愛国心の根底は、土地と共同体なのだ。キザで左翼的な観念を持ちながらも、同時に愛郷者でもあった大佛次郎は、それゆえに『パリ燃ゆ』を書けた。著者はこれを魂の分裂と呼ぶ。だが、だれでもそうじゃないかな。フランス三部作を書き上げたカール・マルクスなんて、科学的思考の熟達者だが、彼を突き動かしたのは「愛」だと小生は思う。グローバリズムと向き合い、折り合いながらも、リージョナリズムを維持する。世界大でそれが要求されることだろう。
んで。近代の呪いはあるけど、それをデトックスすることはやっぱり考えんとあかんやろうなあ。俺はそれを「共産思想」と名付けたいが。

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