『空想から科学へ』(フリードリヒ・エンゲルス著、寺沢恒信訳、国民文庫=2)
読書メモに入る前に。マルクス主義について考える機会はよくある。で、18歳から本格的に読み始めてからの疑問は「論理が粗い/甘い」「民主主義を説きながら、民主主義論は空疎なのではないか?」「階級内部の民主主義論が十分でないからスターリンを呼び寄せたのではないか」というところがメインである。
一定の答えは執筆活動を通じて(思考はずっと前から)まとめられたが、しかし、このような問題意識を前提に常にマルクス主義の古典を読み通したわけではない。そこで、50歳を前にして、「国家論」「民主主義論」「革命論」を念頭に、正確にはキーワードにしてマルクス主義の古典を読み進めたい。
それに付随した問題意識として「マルクス主義は科学か?」というものがある。勿論「科学だと断定するのは危険だ」という評価である。が、言い換えれば「どの程度科学であるか」と言えよう。その意識からまず、そのまんまの題である『空想から科学へ』を最初に選んだ。
なお、文庫に収められている序文などは最後に触れよう。まずは内容から、ということにする。
この本は『反デューリング論』の要約版として一八八〇年、エンゲルスが六〇歳くらいの時に世に出た。通俗的な(ブルジョア的)社会主義に対する批判の書として、マルクス・エンゲルス(二人の立場が微妙に異なるのは今や常識だが)の立場を明確にする意図があった。
第一章は一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家の仕事ぶりを評価するところから始まる。一切のものを理性の審判台に立たせて裁け、と彼らは言い、行動した。それは世界の倒立(ヘーゲル;思想の上に世界を置く)である。それにより伝統的観念は非理性的とされた。真理、正義、平等、人権に取って代わられるべきとされた。それに対してエンゲルスは「ブルジョア的」という形容詞を当てはめたものがこの「理性の国」の現実だと批判する。そこに偉大な啓蒙思想家の限界=時代の限界があったのだ、と。プロレタリアートを含め、様々な革命思想家がブルジョア勃興期に生まれた。特にサンーシモン、ロバート・オーウェン、フーリエをエンゲルスは評価する。だが上手くいかなかった理由をエンゲルスは述べる。「まずある特定の階級を解放しようとは思わないで、いきなり全人類を解放しようとした」と。彼らの国とブルジョアの国には天地の隔たりがある、と。正しく事態を認識できる天才が欠けていたのだ、と。五〇〇年に一度、の。その出現は必然だったが。この後エンゲルスはフランス革命がいかに欺瞞され、堕落していくかを示す。「合理的ではあったけれども、けっして絶対的に理性的なものではない」。封建的悪業はブルジョア的悪業にとって代わられた。(p60、続)

1