11月7日はレーニン指導による冬宮襲撃が成功し、ケーレンスキー内閣が打倒され、ボリシェヴィキとSR左派による連立政権が樹立された。世界初の社会主義革命が成功した偉大なる日である。
1990年、そのソビエトは歴史の舞台から去った。それゆえに、その後は「社会主義なんて無理やったんや」とか「レーニンは人殺し」とか、そういう言説が流行ったなあ。確かに、レーニンはスターリンへの道を掃き清めたことは否定しないし、革命で人命が多数損なわれたことは否定しない。
だが。第一次世界大戦の流れの中、レーニンは革命前に「帝国主義戦争を内乱へ!」と、#全世界に#呼びかけていたことを忘れてはなるまい。革命とは、平時に起きることはまずない。一言で言うと、戦争の別形態なのだ。だから、革命とは人殺しの別名なのだ。
社会民主主義者たるレーニンは、平和的解決、変革の努力を別に怠っていたわけではない。それは今となっては革命と呼ぶべき変わりようではない。もし、第一次世界大戦がなかったら、恐らくレーニンは無名のロシアの社会民主主義者として生涯を終えていただろう。その場合、仮にロシアが変わるとしても、当面は立憲君主国として自由主義者が権力を握り、一部に社会民主主義者が議席を保有するものとして、その一方の左派の党首、優秀な理論家としてレーニンは位置づけられていたであろう。ドゥーマの継続である。
歴史はそうならなかった。第一次世界大戦は起き、それは帝政ロシアの無能力を暴いて二月革命へと繋がった。ここで自由主義者は多くの社会主義の協力も取り付けた。だがしかし、事態は急変する。歴史的制約の下、成長し切れなかったロシアの自由主義は無力をさらけ出し、タガが外れた農村では地主虐殺などの人殺しが横行し、軍隊帰りの労働者・農民は武装し、無力な自由主義者に対するNo!を表現するに至った。彼らの怒り、思いに答えたのがボリシェヴィキであり、SRであったのだ。このようにしてロシアの十月革命は成功したのだ。表層的にはクーデターだが、単なる軍部の奪権行為としてのクーデターとは性質が違う。
だがしかし。ボリシェヴィキは農村で知られずに至らず、SRも右派が強かった。古い選挙人名簿で憲法制定会議のための議会選挙は行われようとした。レーニンの反対にもかかわらず。この状況で大衆が望んだ選挙をすれば革命の成果が自由主義者たちにひっくり返され、ロシアは再び混乱する。レーニンは処刑されていただろう。そこでレーニンは憲法制定会議を武力で吹っ飛ばした(1918年1月)。この後の内乱の凄まじさは書く必要はないだろう。悲劇のファニー・カプラン、マフノ、クロンシュタット。かつての同志たちがレーニン=ボリシェヴィキに反対し、殺し合いをすることになる。
これらも含めて、革命とはそういうものなのである。そして、偉大かつ愚かにも、人類はそうやって歴史を進めてきたのだ。
ロシア革命の全肯定の時代も、全否定の時代も「歴史」になったと思う。意外と穏健な『さしせまる破局、それとどうたたかうか』など、十月前後のレーニンの文章を読もうと思う。
大十月社会主義革命万歳! レーニン万歳!

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