『実録・レイシストをしばき隊』(野間易通著、河出書房新社)
しばき隊には「広義の」とか「狭義の」という言葉がつくことが多い。野間氏は狭義のしばき隊のリーダーであった。しばき隊はC.R.A.Cなどに発展的?解消をしている。
この本はその狭義のしばき隊の歴史を軸に、広義のしばき隊についても解説している。ヘイトスピーチという言葉によるむき出しの暴力に対抗するには、各種暴力が必要であるのは運動圏にいた人には説明不要であろう。その意味で「カウンターに暴力を持ち込んだことが素晴らしい」(畏友・佐藤青狼氏)と言うべきである。また、「しばきたい」けど「しばかない」という含意も感じられ、また左翼による単発的なカウンターの失敗(権力の餌食)を踏まえた作戦も素晴らしいと思う。
要は、初期のしばき隊(狭義は勿論、広義も)には敬意を表する。だが、彼らの願いのはずの対消滅はなく、他の「左翼的課題」にシフトし、組織温存的になり、お定まりの「身内びいき」が、M君リンチ事件による醜態となる。その理路が奈辺にあるか、それもこの本の野間氏の「正義論」から垣間見えた気がする。
ではいつも通り個人的に「へえ」と思ったことを箇条書きで。単語の羅列もあり。
・イケメン通り、芝木隊、取材拒否、だがずっと現場を取材していた安田浩一は無下に出来ない。
・最初はデモを、ではなく”お散歩”阻止。非暴力方針。ヘイトデモ参加者は普通の会社員が多数。警察は“お散歩”を阻止しないが、カウンターは阻止し、逮捕する。デモも警察も無視。
・「警察対応3ヶ条」は理に適っているね。大声禁止。また、服装は威圧的なものとお願い。ヘイト側が言い返してきたら議論に持ち込む。上から目線でヘイトを押さえつける。ゲバ対応のため最初は女性お断り。
・最初の参加者43人のうち「左翼」に分類できそうなのは9人。右翼に分類できそうな人は5人。30〜40歳代が中心。
・”お散歩”対策は間に通行人を装ってメンバーを入れ、ヘイターを孤立させ、距離を取らせる。
・二回目からは班分け。最初の衝突は上の方針に反して起こる。警察は双方解散を訴える。混乱の中、ヘイターは細道を抜けて韓流街に入ろうとするが、グループCが阻止。"No Pasaran!"警察も利用。
・非暴力方針でも「大人数が動かない」ことは有効な「暴力行為」であり、その鉄則をカウンターは利用。偉い。
・しばき隊やCRACは打ち上げや飲み会を主催したことはない。
・エセ公安を仕立ててヘイトデモを監視。本物の公安に紛れさせる(笑)。
・”しばき隊”という名前で在特会界隈は恐怖を覚え、とにかくことを荒立てたくない警察は過度に警戒する。
・ベンツS550に乗るIさん。有田芳生さんが関わりヘイトスピーチは社会問題化し、ヘイトとされる範疇は広がる。最初が狭すぎたと小生も思う。ヘイトスピーチ解消法は民族以外のマイノリティーが含まれないという不十分なものという指摘は小生も著者と共有する。
・デモに直接反対する「プラカ隊」が登場。(2013年2月17日)。後のカウンターの雛形となる。木野寿紀氏が呼びかけた。しばき隊とは本来別物である。
・「仲良くしようぜ」という言葉に対する違和感は野間氏と小生とでは少し違うかな。差別されている在日に対して、日本人が「仲良くしようぜ」という権利はないと小生は思った。野間氏はレイシストに「仲良くしようぜ」と言っていると感じたようだ。木野氏は通行人に呼びかけることになった。しばき隊の任務に、プラカ隊の警護が追加された。
・”お散歩”はデモ後時間を置いて、しばき隊が帰った夜にするようになった。しばき隊も当然対応する。
・プラカ隊は圧倒的だった。静かな怒りに満ちたものだったようだ。
・在特会界隈はしばき隊の最初の写真で関東連合を連想(笑)。
・しばき隊、打ち上げ後の在特会界隈の荒巻氏を捕捉。押し問答後、居酒屋へ。菅野完氏も保守の立場から説教。ただ、届くことはなかったようだ。また、荒巻氏は「NPO外国人犯罪追放運動」とやらを除名される。
・これ、合せ鏡になってしまったな。p85より「顔出しでヘイト・デモに常連参加しているような病的なレイシストの多くにとって、排外主義運動は居場所だ。だからなかなかそこから離れることはできない。また、多くは政治理念や運動方針よりも人間関係によってつながっているにすぎず、ひとことで言えば運動自体がそうした馴れ合いの集積で成り立っている」。M君リンチ事件の顛末がそれを証明していよう。
・桜井誠の最初の捕捉の時、桜井は著者を突き飛ばしたが、警察には暴行を受けたと主張。チンピラヤクザの言い分そのものだね。桜井側はしばき隊が「三人逮捕」されたとかのデマを流すが、すぐバレる。
・Iさんは民間の放射能観測所を運営。反原発界隈で有名らしい。また、武闘の場数も踏んでそうだな。
・関西のカウンターは2009年6月の京都が始まり(ACAN KANSAI)。新左翼系が主導。それとは別にしばき隊に呼応して、「友だち守る団」が誕生。例の女子中学生による「鶴橋大虐殺」発言の頃。
・友だち守る団は、しばき隊とプラカ隊をあわせたような存在。東京のカウンターは日本人がほとんどだが、関西では在日が矢面に立つことになった。「わたしの友だちに手を出すな」
・これ、いいね。逸見龍生批判。→「これが「おフランス」というものか」。また、東京の事情があるのだろう、「守る」という意識はない、とのこと。これも共感する。本来、日本人も在日も対等だから「守る」とかそういう話ではないのだ。しばき隊はアイデンティティ・ポリティクスと距離を置いていた。関西は事情が違うので前面に出した。
・ヘイト・デモを警察に許可しない署名運動。小生はアリと思う。結局、<力>をどう使うかという、ハイエク的問題(カタラクシア)だと思う。
・警察の指示でヘイトデモは「集団下校」。
・2013年3月17日からしばき隊はデモに直接抗議することとする。清義明氏がサッカー・サポーターのやり方で反レイシズム運動に参加。耳元でトラメガを使うというスタイル。
・チョケてた神鷲皇國会の清水某は神原弁護士の働きかけにより逮捕される。昭和のヤンキーが在特会の中堅どころという見立て。
・在特会のデモに直接抗議する行動により、在特会のデモの声は沿道に届かない。在特会でない物凄い数の人々の参加と罵声による。
・次の2013年3月31日には、その5倍の人数が。山本夜羽音氏なども参加。ヘイト・スピーチに反対する街頭テレビの中、ヘイト・デモが通過。機動隊はカウンターを止めようとするが、一般人も多く止められない。解散地点はカウンターが埋め尽くす。
・プラカ隊で参加のハードルが下がり、メディアで取り上げられ、有田芳生氏が参加したことが人が増えた理由と著者は分析。
・「右翼の民青(by 大阪の知り合いの右翼)」である鈴木邦男氏は著者から見たらリベラル過ぎて甘すぎるとのこと。
・右側からは反レイシズムは取り組めないと著者は思っているようである。(針谷氏を見れば分かるがそんなことはない)
・ともあれ、この2013年3月31日が起点となり、「ヘイト・スピーチ解消法」は成立した。
・ヘイト・スピーチに対して多くの人が「これが不正義である」と判断したことがカウンターの成功理由。
・「どっちもどっち論」批判は正当。これは、何らかかの異議申し立てを行った人なら分かるだろう。
・2013年6月、「男組」結成。主宰の高橋氏(添田氏、故人)は、しばき隊への入り方が分からなかったからという。
・しばき隊の目標はとても短期的なものであり、また、「デモを出発させないこと」である。
・デモ許可証を持っている人間を捕獲するという作戦は、チーム関西が枚方(川東大了氏をターゲット)で成功しただけ。
・挑発に乗って逮捕者が出たことがある。ことのついでに殴られただけの人まで逮捕される。警察はそういうことをするところだ。(当然殴られただけの人は不起訴)。因みにレイシストの桜田修成氏に殴られた人が被害届を出してもなしのつぶて。
・しばき隊〜CRACに至るまで、逮捕されたのはこのときの3人だけ、とのこと。
・逮捕をきっかけに、ステルス作戦をやめてメディアなどに登場することにした。個人的には、この段階で野間氏の能力を超えるタスクが生じたのだと思う。ともあれ、ヘイト・デモに対しては人間の壁が形成出来るくらいにカウンターに人が集まっていた。だが機動隊がその壁を崩してヘイト・デモを通すという理不尽。2013年6月30日は両方最高の数だったとか。ヘイト側350人、カウンター2000人。
・地元商店街は騒動に耐えかね、7月7日のデモは中止に。警察から瀬戸弘幸に圧力がかかったらしい。この後ヘイト・デモは勢いをなくす。
・しばき隊は「仲良くしないぜ」を合言葉にしていた。素晴らしい。2013年9月22日の「東京大行進」については勝手に警備。これも素晴らしい。
・2013年9月8日のヘイト・デモに対抗して、シット・インを実施。事前に入念に計画と作戦を立てている。
・シット・インはごぼう抜きされるが、された分だけ誰かが座る。機動隊は焦り、例の「道交法違反」をがなる。だが、集まった人々の抗議は機動隊を包囲する。「差別デモを守る側に警察が動いていることが、全世界に報道されるぞ! それが、オリンピック開催が決まった東京の判断か!」(p179)でもヘイト・デモは出発する。だが。
・「機動隊に触らない。機動隊に何かされたらぐにゃっとする」(p181)ってのはいいね。ヘイト・デモのコースである大久保通りの数十メートルをカウンターが埋め尽くす。ごぼう抜きされてもぐにゃっとして放り出され、また道に戻る。著者はコンサートの「モッシュ」にそっくりという。これの経験者が多かったのではと推測する。カウンターの体を張った行動は通行人に感激を与えた。そしてしばき隊は解散。以後2018年1月まで、新大久保でヘイト・デモは起きていない。しばき隊は歴史的使命を終えたのだった。
(と、ここまでなら美談なんだが。)
・2013年9月30日、CRAC発足。最後のCは"Collective"。野間氏の美学である。カンパや寄付に頼らないで独自で財務処理のため、TシャツやCDを売ったりしているのは有名。
・野間氏はやっぱり「サブカル野郎」である。これは褒め言葉だ。イギリスの極右団体、ナショナル・フロントを罵倒するパンクス、そして労働者階級。それは1977年のこと。反レイシズム思想はイギリスではパンクスやサブカルに共有されている。
・タンベ(タバコ)、ゲン、朴さん、垂水区、プルガサリ、中岡大吉、大阪外大のテコンドー部、バブル期の就職差別、全斗煥の韓国、機関銃を手にした兵、ギンギラギンにさりげなくが流れる韓国、実は日本人にフレンドリーな韓国人、「萎縮」と「排外主義」。
・日本が最も豊かだった80年代後半、等身大の在日が文学や映画で描かれる。(だが、それに対する総連なんかの批判があったことはこの本には出ていないね。そしてその手の批判と、この本に出ている知識人たちのオリエンタリズムは好一対だと小生は思う。)
・黄民基の『奴らが哭くまえに 猪飼野少年愚連隊』は読みたい。等身大の在日の姿。
・色々懐かしいもの(個人の感想です)-->悪趣味大全、『危ない1号』、バッド・テイスト、ハッサン・イ・サバー、『突然変異』、ポストモダン、「大きな物語」の終焉、価値観の水平化。野間氏はこれらの風潮が現代のヘイトの源流ではないかと推定している。
・「「等価である」と青山(正明)が言うときの視線は、自分の行為にしか向いておらず、社会構造の非対称性は一切無視されている」(p231)。 個人的な話。1995年のNIFTY の FSHISO で、「大衆テロをやったオウムに対して、国家権力が全法律を拡大解釈して弾圧するのは当然だ!」と書いて、リベラルから総スカンを喰らったことを思い出した。あの事件では、武装集団と、武装放棄した大衆の非対称性を考えないリベラルに凄い反感を覚え、元々欺瞞的で好きじゃなかったリベラルと決別する決心がついた小生は、この野間氏の指摘は正しいと思う。
・ネットの衝撃。あ、「ぁゃιぃわーるど」だね。共産趣味によって左翼は消費社会の消費物となった。だが、右翼はそうならなかった。左翼は過去のもの(オワコン)。まっぺん同志のところも紹介されている(笑)。うん、彼は趣味者兼主義者だよ。(だが、本当に左翼はオワコンなのだろうか?)
・河上イチローさんの Der Angriff。著者によればこれらは全て「等価な価値」という倒錯した実験ということになろう。表現の自由を武器に。だが小生は思う。「資本主義という「大きな物語」は全てを包摂しつつ、全然終わっていませんぜ?」と。それへのラディカルな批判は、表現の自由の中で流通しない(商品化しない)現実を見ている。化石左翼としてそう思う。
・1996年2月8日、ジョン・ペリー・バーロウによる「サイバースペース独立宣言」。パソコンはヒッピー文化から生まれた。アラン・ケイにより元々は今のタブレットを想定したものがパソコン。スマホという形でその夢は実現していると言える。
・だがそれは商業主義にまみれたディストピアでもある。デマ宣伝を有力に行えるのはお金を持つ者たちだ。アメリカの戦争による宣伝戦を思い起こすのがいいと思う。
・ネットの自由は、国家権力の前には無力であることを色々例示している。(p258あたり)差別発言は放置するのに。
・「ニコニコ動画、ユーチューブでおなじみの在特会でございます」(p257)
・ドワンゴ(川上量生;創業者)は差別禁止条項を削除。言論の自由との兼ね合いで苦慮していると小生は思う。
・PGPなどの技術は独裁政権への対抗に使えるが、ヘイトの拡散にも使われる。
・「発信者情報の開示は司法の命令を必要とする」のは、法治国家として当然のことじゃないかな?
・マクルーハンの言説を借りると今のネットはクールで対話的。ネトウヨはそれに乗っている。
・タコツボ化の開放が殺戮に繋がると野間氏は言うが、それならばそれまでのこと。それを理由に開放を拒否するならば、反差別界隈はいつまでもタコツボで、ネトウヨは大手を振ってヘイトを撒き続けるだろう。それに対抗しているのは、共産趣味者のまっぺん同志をはじめ色々いる。安心したまえ!(歴史の屑箱ry)
・日本茶、問答有用、2002年ワールドカップ。一つスルーされているのは鐵扇会だね。
・スガ秀実氏の「革命的な、あまりにも革命的な」を思い出しつつ。価値相対化、特に新左翼の価値相対化は言うまでもなく華青闘の告発を嚆矢とする。これは告発側に正当性があるにせよ、新左翼にも共有されていた日本人の愛国心を根底から揺さぶるものであり、私見では在日問題の解決不可能性を示すアポリアであったと思う。新左翼の一部は弱者憑依@佐々木俊尚氏することで、日本人一般と自分を分断し、高みに昇ることで原罪を清算しようとした。(この清算も不可能こと) この華青闘の告発を嘲弄していたのが野間氏であること、日本マルクス主義の「正史」は華青闘の告発によって解体され、偽史が価値相対主義によって「正当性」を持ったこと、そしてその偽史の一つに乗っかる形で愛国を歪んだ形で取り戻そうとしているのが日本茶などを本拠地としたネトウヨたちである。ネジ曲がった、とても難しい問題が、左右の別なく横たわっていると小生は思う。少なくとも、嘲弄ごときで乗り越えられる問題ではない。歴史の重みを馬鹿にするのも大概にしたまえ。
・2010年まで著者はリベラルの原則を維持していた。が、それを破壊したのが在特会の登場。ヘイトの自己目的化に対しては、力による粉砕しかない、というのはその通り。
・ネトウヨが生まれた背景として、スターリン主義(共産党独裁)、内ゲバへの嫌悪がある。著者は2010年頃「アナルコナショナリスト」と自称。英語圏ではファシストとのこと。そこで開き直って欲しいなあ(笑)。「思想としてのファシズム」(千坂恭二著)どうぞ。
・10年前のフリーチベット運動の中心に鳩山由(友)紀夫さんがいた。それとは別系統で朝鮮初級学校を襲撃するチーム関西らの運動があった。彼らはフリーチベットを反中運動にすり替えてしまう。
・「転び公妨」みたいなことをする赤石哲春という維新政党・新風党員。堕ちたなあ。
・2005年頃、著者も含めてヘイト・スピーチを法で規制することには反ヘイト側も慎重であった。規制すべきと著者が思うようになったのは2013年の終わり頃。ヘイト側の増長が酷かった頃である。
・「彼ら(ヘイト集団)が商店に嫌がらせをしていても、警察はまったく意に介さないということも判明した」。(p294) 権力の暴力装置は、最高権力者の意志を忖度するものだ。
・著者は形式上は在特会会員である(笑)。
・四谷区民ホールを埋める西村修平一派。
・極左セクトと思われる集団がカウンターをしようとすると、機動隊が完全に動きを封じ込め、悠々とヘイトデモが通り過ぎるという理不尽。
・カウンター側の少年がヘイト一味に襲いかかられた時、身を挺して守ったのは新右翼の面々。統一戦線義勇軍の針谷大輔氏は退学処分を喰らった(これも理不尽!)少年のサポートを続けた。
・針谷氏は横浜の不良上がり。
・「しばき隊」というネームは、「うしろゆびさされ組」的なダサさを意図していた。同時に暴力衝動をごまかすものだったと著者は言う。
・「正当な暴力」はある。問題は、その行使の技術と条件だと思う。また、社会的位置により言葉が暴力になり、それは物理的暴力よりも苛烈になるという著者の指摘は納得出来る。口を塞ぐという「物理的暴力行為」も正当な時はある。その上で。
・罵倒表現は水平な間柄ならば確かにヘイトではない。だが、礼を失する、あるいは侮辱行為は差別と同じく許されないと小生は思う。その点で、しばき隊は旧左翼や昔から様々な運動をやってきた人たちに対して許されざる行為を行ってきた。「差別でなければOK」などというのは、葉寺同志の言葉を借りれば「己ルールに過ぎないものを他者に強要している」ということだ。
・「しばき隊は、マイノリティに寄り添わなかった」(p312)。実にいいと思う。ついでに鶴橋のカウンターの面々が寄り添うことにしたことも実にいいと思う。M君もその中にいた。
・鄭先生によるSEALDs批判に対する揶揄の理由はこの辺にあるな。「内面へ内面へと無限に問題をスライドさせていく反差別運動は、少なくとも現在のようなヘイト全盛の時代においては、100%失敗する。むき出しの憎悪が燎原の火のように広がっている状況でひたすら自己を問い直したところで、それは自己啓発にすぎず、ヘイターたちにはなんのダメージも与えない。これは、敗走でしかない。」(p318) リ
アルポリティックスを考えるとこれはこれで正しい。が、その自己啓発がなければ、大衆のまなざしを行動に転化することは出来ない。華青闘の告発を思い出させる鄭先生のSEALDs批判が意図するところ、もっと痛苦のことを思えば部落解放同盟の被差別大衆からの孤立の歴史を思えば、その自己啓発が必要なことは明らかなんだが。
・で、華青闘の告発の部分(p318)。これについては小生は結構同意するが、それでもやはり華青闘の告発を日本人は#全体で#受け止める倫理が必要と思う。上に書いたがとても難しい問題だ。「派手にコケたほうが勝ち」(at 千坂恭二氏の勉強会)というものでもない。ましてや革マルや日共のおぞましい態度を是とすることも出来ない。日本社会の、日本左翼の難問だ。
・「どっちもどっち論」批判は正しいと思う。だが、それは開かれた運動であるかぎりにおいて正しい。不寛容への不寛容(=戦闘的民主主義)も必要だ。だが、そこで措定される共通の前提(正義)は歴史的にその社会で培われて来たもので、その外側からの新参者には厳しいものがあり、新たな歴史が紡がれる時、摩擦が起きるのも歴史の習いである。
・しばき隊の理論の背骨はロールズの言う「公正としての正義」である。法(justice)において「正義は人それぞれ」という前提は採用されない。「共通の正義」が前提とされるのだ。それに関する難問は上に書いた通り。
・「正義はだいたいでいい」。これはその通り、歴史的なせめぎあいで動くものだ。(ハイエクの言う「カタラクシア」)
・小生は「正義」についての著者の議論に大いに同意するところであるが、社会運動を「正義」のみで語ることはとても危険であると、ささやかながら社会運動に携わった身として思うのである。
・で。最後。凄く共感した言葉を引用して終わり。
「その場その場の小さな判断の積み重ねが正義の実践であり、我々一般庶民の立場では、そういう判断をその都度だいたい妥当におこなえばそれでいいのである。」
(p342)

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