『親鸞――悪の思想』(伊藤益著、集英社新書)
悪という言葉を切り口に、アウグスティヌス『告白』などを比較しながら、親鸞の現代的意義を明らかにしようとする書物。
過去、様々な論者が親鸞の言う悪(人)とは何かを解釈している。吉本隆明の言う価値相対主義的な考えや、「本願ぼこり」的なレベルの低いものもあるが、有名なのは暁烏敏の言う「親鸞の言う悪人は“悪人であることを自覚している善人”のこと」という解釈だろう。
実は、お西さんでもお東さんでもいいが、おじゅっさん(お坊さん)にそのことを言うと、そういう解釈はまず否定される。そうじゃない。人間が生きることそのものが悪をなさざるを得ないのだ、と。存在論的悪である。本書の著者もその解釈に立つ。
ただ、小生としては、本書に不満があった。存在論的悪を主張する余り、親鸞の悪は倫理・道徳的悪ではないことを強調する余り、『存在論的』と『倫理的』の間に深すぎる分画線を著者は刻んでしまったからだ。
小生の考えるところ、存在論的悪であるからこそ、倫理的・道徳的悪をなさざるを得ない/あるいは なしてしまうところにこそ人間の哀しみはある。そしてそれらは本来は分けられないと考える。
悪への意識としては、魚を取って殺してメシにする(殺生戒に抵触)ことなんかが代表的な出発点になろう。これは、倫理的(別に魚を食わなくてもいい)悪でもある。この考えをラディカルに深めることによって存在論的悪への意識に行き着くのだ。人間は、何かを犠牲にし、何かを排除して生きているのだ。輪廻ということだ。これからは本質的に逃れられない。娑婆は穢土とならざるを得ない。命の営みというと聞こえはいいが、本質はそういうこと。
さて、阿弥陀様はそういうありようを悲しまれ、弥陀の誓願と言われるものを立てられる。「この世の生きとし生けるものが救われるまで、往生しない」と。そして、上の論理にあるとおり、生きとし生けるものは輪廻に絡められており、自身では成仏できないのだ。そこでは自力はナンセンスである。阿弥陀様の力にすがるしかない。他力である。南無阿弥陀仏と唱える心も、それを信じる心も、阿弥陀様から付与されるのだ。こうして、阿弥陀様は一切衆生を摂められようとする。これはこれで閉じた論理である。
ただ、そうであるにせよ、なぜ我々には信心を持つものと持たないものがいるのだろう。なぜ、阿弥陀様の誓願を感じられない自分があるのだろう。感じるときもあれば、感じられないときもある。そのようなあやふやで愚かしく、悪に染まり、それにおののくからこそ、極楽往生は予定されているとされるのだが。自分が信じている仏教であっても、やはりこの辺で横滑りさせられる底を感じてしまう。
ところで、アウグスティヌスの『告白』だけど、Amazing Graceの歌詞といい、プロテスタンティズムの「救われるものは予め決められている」という考えは、こういうキリスト教の教えと離れているんじゃないのかなあ。カトリックに敬意を払うものとして一言。

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