『帝国主義』(アンドリュー・ポーター著、福井憲彦訳、岩波書店)
これから帝国主義について研究したり、学んだりするイギリスの初学者向けに書かれた本とのこと。だから、問題を包括的に取り組もうとしているし、リベラルな立場から書かれているにしても抑制が効いていて、イギリス人のよさが滲み出ている。
著者の取り上げる帝国主義は、時代区分としては1860年〜1914年の、資本主義的帝国主義の膨張期に焦点を当てる。この時期は、資本主義のシステムが世界を覆い出し、植民地支配が末期を迎えた時期だ。また、日本帝国主義のような非ヨーロッパの帝国主義国家が出現した時期でもある。
第一章で帝国主義に関する様々な定義や理論が俎上に上げられる。象徴的にはレーニン。有名な帝国主義論による定義と理論。それについて、著者は“基本的には仮説であり、しかし仮説でありながらも、一般理論を提供するものとして主張された”が、正しくもレーニンの本当の意図である“第一次世界大戦の国際情勢と資本主義の未来について、説明しようとしていたのであった”と見抜き、理論は後景であるとしているようだ。同意する。
次に、ホブソンとシュンペーター。どちらも帝国主義を恵みある進歩的なものと捉えている。悪しきものは個別利害の貫徹にある、と。他にも様々な理論が。“国際的な取引において国家が帝国主義的政策を採用せざるをえないということ、経済的正当化を体系的に与えようとする理論”。しかし、キース・ハンコックは言う。“帝国主義などは「学者の言葉ではない」”。
確かに、“「理論」という言葉に与えられるさまざまな意味にたいして、歴史家は段々に敏感になってきている”。歴史家だけではないと思う。一般大衆はもっと広く「科学」という言葉に敏感だ。理論や科学で欺瞞されてきた歴史があるからだ。それはともかく。
定義や理論に関しては今やばらばらであり、多くの可能性が残され、探求がされている。この本の後の章でも通用する定義は、次の広い定義くらいか。「いかなる手段にせよ、またいかなる目的にせよ、ある社会ないし国家が他を統制しようとする傾向」。本書が課題とするこの時代には相応しいと思う。この定義に従うなら、帝国主義とは国家的ヘゲモニーの争奪戦のことだ。
第二章では、政治的側面から帝国主義が説明される。「神は自らの姿に似せて人を作った」「資本は自らの姿に似せて社会をつくった」ならば、「各帝国主義は自らの好ましい姿に似せて世界を作ろうとした」ということか。自分たちのありようが一番良いと思った各国のエスタブリッシュメント、国民が自らのありようを世界に押し付けるため、帝国主義を支持した。彼らは全くの善意である。キリスト教は自分たちを広めることに使命を見出す。どうしようもない「自分たち(あるいは西欧)=善、進歩」という図式。日本もこの図式に嵌るのだから、彼らと同罪だ。布教精神と殉教精神は同じ心根のコインの表裏。人道主義者、人間主義者(例えばマルクス)とて同じ心根を共有していた。これらの心根は排外主義と結びつき易く、それは1914年に爆発するであろう。そして、これらの心根を推進した文化人類学はレヴィ=ストロースの登場まで、真摯な自己批判はなされないであろう。
第三章では、社会的・経済的側面から帝国主義が説明される。歴史的には大きく二つの説明手法の流儀がある。一つはマルクス主義に代表される“動機や意図についての同時代の声明からは表層的な意味が読み取れるにすぎないとして、たとえば政府によって採択された政策は、本質的に不可避のものであった”と見なす決定論的な説明。もう一つは、“もっとゆるやかな見解に立って、政治的、イデオロギー的、社会的、経済的な諸構造は、政府や政策決定者や民衆にたいして、一連の変動的な拘束力を発揮していた”として、必ずしも決定論を採らず、オルタナティブの可能性を残す説明。しかしその選択は、かなり狭く、安定しない範囲とする。この流儀を踏まえ、言葉の説明に入る。
まず俎上に上げられるのは「社会帝国主義」である。それは、中国がソ連を批判したものではない(笑)。ハンス・ウルリヒ・ヴェーラーがビスマルクの政策などについて議論する中で、最初に展開された概念である。ビスマルクは自由貿易で繁栄などを狙ったが、経済不況などで行き詰まり、保護主義的政策と植民地利用に踏み切る。プロイセンのエリートはイギリスへの排外主義と民衆の熱狂を利用し、保守の政治支配と領土支配による大陸の支配、世界の支配を目論む。
それは良く言われるように“国内の世論を操作して大衆の支持を動員”し、“社会主義者(ら)の不満や別の変化への圧力を、いずれも国外へとそらせるために、設計されたものであった”。
ただし、良く知られるように、帝国維持はコストがかかる。日帝は朝鮮に現在の金で八兆円投資した。それはともかく。ビスマルクはそれに気づいていたから、そういう意図はなかったのではないかという批判。もっと日和見主義的な、成り行き任せだったのではないかと。また、ドイツはもっと内部的にはややこしく矛盾した社会の多様性があるので、単純化してはいけないという批判。
しかし、上のような考えは、各国についても当てはめて考えられた。だが、どうも結論としては、政治はもっと内向きに眼が向いていたようで、この概念ではうまく説明できないことが多いようだ。
次に「経済帝国主義」について説明される。この説明でなされる帝国の特徴は三つある。“第一に、人口増加と、工業生産とサービス業での雇用の増大と、農業の相対的な後退という時代にあって、植民地は食糧や原料の受容を満たす、第二に、植民地などとの交易は市場をあたえてくれる、第三にインフラ需要は、投資の機会を与えてくれる”。
だが、公的な植民地に関する研究や統計は、これらの仮説を弱いものにする。余りにも小さいものと。企業は、国家を気にせず投資した。現在の多国籍企業の萌芽である。企業同士が連携して、帝国本国に反対することもあった。
なかなかに「帝国主義を論じること」は難しい。
第四章では、「周辺」からの説明。基本的に周辺から見たら、キリスト教とか世界貿易とかは「大きなお世話」なのだが、しかし、圧倒的な力を前にすると人間はそれに屈するか、あるいは利用しようとする。ただ、帝国の欲するままに受け入れられるものではない。カスタマイズされていったのだ。入植者たちもカスタマイズされ、独自の利益を追求した。その個別のカスタマイズのありようの研究が、現在の主力のようだ。
第五章では、その他の最近のアプローチについて。ウォーラーステインらの世界システム論を踏まえ、中核〜周辺という解析。だが、インドやアフリカにも「中核」はあり得た。本書には書いていないが、江戸日本にもその萌芽はあった(事実、日本帝国主義は存在した)。また、遅れた資本主義国であるイタリア、スペインなどはヨリ帝国主義を利用しようとした。彼らは中核か?
イギリスに焦点をあわせた研究も力がある。だけど、敷衍できそうにないらしい。それから、帝国建設・維持はなかなかペイしないようだ。「アジア解放の戦争であり、正義だった」という同じ口で、「朝鮮併合は朝鮮の近代化に貢献し、正義であった」という連中はやっぱり頭悪いや。ダブスタの正義。利益から帝国主義を説明することは、実は困難だ。
次に、“帝国が深く根を張り維持される方式”についての研究。人類学などの科学が支配に利用された様子。次に、サイードに代表される研究。文化的特徴に重要性を見出す。オリエンタリズムという概念の抑圧性。優越心と支配心をもって生まれた概念。ディスクール? よく聞くが、俺は知らん。
第六章は、膨張と帝国について。今までのまとめか。経済的動機だけで説明できるわけではなく、むしろイデオロギーに属するものによる運動かと。まさに、地獄への道は善意で敷き詰められている。ワシらとワシらのやり方が一番、それを世界に推し進めて何が悪い?と。最後に一発引用。(P126L5〜)
“本国の自己中心的な心性が帝国建設の過程にいかに形をあたえたかについての、より完全な知識と理解、また、帝国と帝国的活動への訴えが、さまざまな種類の利害にたいして正統性をあたえることになり、重要な、あるいは説得力のある美辞麗句の仕掛けとして現われた、その方式についての、より完全な知識と理解とが、少なくとも必要とされている。”
下部構造→上部構造では世界を説明できないことがハッキリした今、帝国を巡る課題も深く、広いようである。

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