TAMO2ちんの日常

思想の嵐 猛(たけ)るとも 正しき道を いざ進め 

 

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投稿者:tamo2
人によっては「どの本も同じこと」と言っています。何となく、分かりますが、「テロルと戦争」は抑えていて損はないと思います。でも、主張はかなり「人権と国家」と重なります。
投稿者:まこと
ジジェク氏の本、私も読みました。
「死の情動」というのがキーワードだと感じました。

JR下関駅への放火事件などは「死の情動」が現実行動の段階へと移行した典型的な事件だとは言えないでしょうか。

彼が書いた他の本も読んでみたいですね。
投稿者:tamo2
p182
 興味深い時代であるだけに、なんらかの革命を起こさなければなりません。倫理的、政治的な大変革です。そうでもしなければ破滅が運命づけられていると私は感じています。残念ながら、ずばり的中する解決策は思いつきません。私たちが人間の本質に立ち向かっているとすれば、人間性そのものを再定義することを強いられるからです。(中略)西洋の、または東洋の教えによれば、「自分の内側を見つめなさい」ということになります。とんでもない! そうすれば、ずたずたになった先人の思想に直面するだけです。

p184
唯物主義とは、物質的発展へのナイーブな信頼などではなく、現実の完全な偶然性を受け入れることだと思います。
投稿者:tamo2
p176;現在的倫理・責任をどこに帰着すべきか?
ある経済政策によって何百万もの人の生活が破壊されたのに、「私は何もしていない」と言えます。原因は経済政策であった、つまり制度のせいだと。問題は、この種の暴力についても我々に責任はあるのかということです。

p178;同上
 やはり真の問題は、体系的な悪でしょう。社会や自然における人的介入によって引き起こされているのに、故意に生み出されてはいない。そこに責任の概念を導入するような、再定義が求められているのです。

p180;まさに、我々の政治的課題
取り組むべき危険の度合いを理性的には意識していても、信念の次元では真に受けていないのです。
投稿者:tamo2
p164
純粋に人道的で反政治的な政治は、事実上、社会的・政治的改革のための積極的な集団的働きかけを暗に禁止することに等しいと言えるだろう。

p172
<普遍的人権>は、政治以前のものであるどころか、政治問題化とは何かを定義づける。それは普遍性それ自体への権利に等しい。政治的主体が、固有のアイデンティティにおいて自身との本質的な非偶然性を主張する権利、まさに社会の組織の中で居場所を持たない<役のない役>という<エキストラ>、<社会>それ自体の普遍性の行為者として自らを措定できる権利なのだ。(中略)普遍的で<メタ・ポリティカル>な人権への言及なしに市民の政治的権利を理解しようと試みる瞬間、我々は政治というものを失ってしまう。すなわち、政治を特殊利益の交渉という<ポスト・ポリティクス>的な行為に至らしめてしまうのだ。
投稿者:tamo2
p155
 我々が直面する人権の両極端には、一方に精神的にも身体的にも完全だが権利を剥奪されている<爆弾が当たらなかった>人間、他方にその昏睡状態の生命が国家機関の総体によって守られている人間とがある。

p161;理性・進歩主義に捉えられた意味でのマルクス主義の限界
 バリバールは次のような議論を展開する。避けられない構造上の問題から、マルクス主義は歴史的<進歩>という物語に組み込みえない暴力の剰余を考慮することができない。

p162
<権力>とは常に暴力という不愉快な汚点に頼らざるをえず、政治的な時空間には<政治以前>の暴力への依存が関わっており、<純粋>なものではありえない。

p162;非政治とか中立の影に欺瞞が見える理由
人間社会においては、政治こそが包括的な構造原則である以上、内容の一部を<非政治的>として中立化するたびに、政治的意思表示の究極の形が見受けられるのである。
投稿者:tamo2
p142
 今日、他者に対する自由主義的で寛容な態度を決定づける主題は二つある。他者性を尊重する開放的な姿勢、そしてハラスメントを恐れる強迫観念である。端的にいえば他者は、侵入的でなく、存在感が薄い限りにおいて許容されるのだ。

p143;再び智ちゃんのミルクティーの恨み
 <享楽>の命令という悪循環にはまってしまったとき、その<もっともな>対立概念に引き寄せられがちである。<享楽>を荒々しく放棄するのだ。これこそが、全てのいわゆる<原理主義>の根底にあるモチーフではないだろうか。(中略)「退廃的な道楽はよせ! 捨て去って破壊せよ!」と、放縦を断ち切るしぐさそのものが、剰余享楽を生じさせるのだ。

p146;無限の主体性ではなく、有限性の自覚を
倫理の第一歩は、絶対的に自己を措定する主体性という立場を諦め、自らの露出/投げ出された事実、<他者(性)>による圧倒を認識することである。我々の人間性に制約を加えるどころか、この限定は人間性の積極的な条件である。有限性の自覚がほのめかすのは、根源的な容赦と寛容の「生き、生かせ」というスタンスだ。
投稿者:tamo2
p133
 ヘーゲルの主張を言い換えれば、<原理主義>を非難するうえでしばしば、原理主義的な<悪>を捉えるその視線にこそ、<悪>が潜んでいる。

p136
<バルカン>の<他者性>という外観に、ヨーロッパは自らが抑圧してきた<内部の異邦人>を認めるのである。

p137;アーミッシュは無菌培養だから、外界のばい菌に対応できない
(外部世界に修業に出ると)セックス、ドラッグ、飲酒の毎日に飛び込み、<全て試して>しまう。そうした生活における限度の認識や自己管理といった能力を内在的に持ち合わせていないため、自由放任の環境は容赦ない反動を生じさせ、耐え難い不安をもたらす。彼らが数年後に隔離されたコミュニティに戻ることは、ほぼ確実だ。

p138
選択とは常に、メタ選択であると言うこと、つまり選択そのものの形式を選んでいるにすぎないのだ
投稿者:tamo2
p128
近年までミサをラテン語で司っていたカトリック教会は、非常に賢かった。真の信者であるためには、理解してはなりません。

p130
ソ連で「共産党を批判できない」と公に宣言する人がいたならば、即座に逮捕されたでしょう。もちろん禁止されていたが、それを表明することさえも許されていなかったのです。
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