『喪男の哲学史』(本田透著、講談社)
著者はもてない、女に馬鹿にされるというトラウマから、哲学と向き合った。人間というものは他人と比較することで自分の立ち居地を確認する生き物である。優れていたら得意になり、劣っていたら僻んだり、うらやんだり。そういう生き物なのである。一番難儀なのは「他人にあって、自分にないもの」を妬む心。これは、欠乏感を強く齎す。モテる、モテないは大事な問題だが、人によっては他のことで欠落感を持つ。この欠落感を「喪」と名づけたい。一見、おちゃらけているような「モテ」「非モテ」の対立概念は、著者にとって非常に切実なものであり、そうであるがゆえに、この本は非常に真面目な哲学書なのだ。
で、小生の青春時代。「モテ」「非モテ」には興味がほとんどなかったので、この位相において妬み(まさしく嫉妬)などはなかった。しかし、京都大学というある意味「怪物の動物園」にいたので、物凄い奴らを一杯見てきたから、学問とか、知性とか、そういうもので「喪」であった。今でもそれは継続している。だから、この著者の書くことは、位相を変えて理解できる気がする。
さて、人間、得られない苦しみ、得ても消えてしまう苦しみ、それは不滅の苦しみである。著者はお釈迦様のお話から入る。お釈迦様の凄いところは、モテだったのに、そのモテの空しさを知ることで「消えてしまう苦しみ」を悟られた。生病老死一切に苦が張り付くのだ。これに痛く気づかれた仏陀は、国も家族も捨て、修行の道に入られた。四苦八苦に囚われ、自我がそれらの幻想に苛まれることを止めること、すなわち、解脱という方法に気づかれた。最初は鹿を相手に説法をするが、人間にも話すべきという誰かの忠告に従って、人間に話す。
さて、ここから人間社会の宗教・思想運動に連綿と伝わる悲劇が起きる。仏陀は人を見て法を説けとおっしゃる。仏陀の肉体は死滅する。肉体的に現前しない仏陀は人々の観念の中に生きる。「俺の仏陀」なのだ。で、それはそれぞれ違う。人を見て法を説いた仏陀の教えは、受け手によって異なって当然だ。だが、他人の頭は自分の頭ではない。言葉の上では齟齬が生じる。しかし、自分にとっての仏陀が他人にとっての仏陀となる。脳内仏陀はカリスマとなる。ある教えの共感者だけが集まり、組織化する。セクト(宗徒)の発生だ。セクトは他セクトへの優位性を得るため、稠密な体系化を行う。だが、それは形式に過ぎず、重なりがあるとはいえ仏陀そのものとは違う。著者はこの悲劇を
哲学の普及を阻む「組織化」「カリスマ化」「体系化」の三点セットと呼ぶ。
しかし、組織は強い。嘘八百、自己欺瞞に満ちていても強い。強いものはモテ側になってしまうことが多い。「我弟子を持たず」と言った親鸞「派」は日本最大の宗派だ。そして、モテになってしまうと、本来持っていた苦悩がなくなり、哲学としての生命力が萎えてしまう。
見事だ! 実に見事だ!! この第一章だけでも、宗教家や革命家は読む価値があるのではないか? 組織が大事なのか、それとも、苦悩が大事なのか? そもそも、何のための組織か?? 組織という形態の持つ逆説的悲劇に対して、あなたは警戒しているのか???? クリシュナムルティのように、組織なんか有害だからなくせ、とは言わない。組織なくして、親鸞の教えの深いところに小生が気づくことはなかったろう。しかし、組織はあくまで入り口なのだ。他で言えば、共産主義・共産党にしても。内面世界において党員を抑圧してどうする。
(続)

0