【バタイユ】
ロビンソンクルーソ的世界で考えよう。消費があるから、生産がある。消費が根源。さらに、人間、楽しみがなければやってられない。楽しみとは消尽だ。これが根源だ。楽しみなんてなくても生存は出来る。だが、この過剰がなければ人間ではない。ソ連的社会主義が失敗するはずである。
【ジンメル】
神は細部に宿る。その細部は恐るべき揺らぎがある。世界を超え出ようとする揺らぎだ。その細部の揺らぎは全体の力で発生する。ただ、無理に全体を見ようとするとその揺らぎを感じる力が減衰するんだろう。それでも、自称全体主義者としては全体を問題にせざるを得ない。往相・還相。曼荼羅。思想の創造的な断片性がフローするには、全体への意図・意思がないといけないんじゃないか。
【ベンヤミン】
一切が批判の対象。批判の刃で砕かれた像から、何を救済するか。ポストモダンのドンツキの今、ベンヤミンの救済=批判ってのはどうなんだろ。『パサージュ論』『暴力批判論』はいずれ。コンサートやスポーツは一回こっきりのアウラに満ちている。
【アドルノ】
行為(思惟も含む)への同一性への欲望ってのは確かにある。共産主義しかり、ファシズムしかり。トリアーデの図式は「合」の段階で従来の全体主義の危険を孕む。アドルノはその行為に警鐘を鳴らす。恐らく彼は、キッチュ&ジャンクにならざるを得ない大衆社会を拒否したかったんじゃないかなあ。
【アレント】
従来の全体主義ってのは、個人など必要ない。正確には追放される。生権力という手段だけではない。大衆社会が画一化によってなされるならば同じこと。民主主義を貫徹することで、全体主義が発生する可能性もあるのだ。
公私は近代では溶解する。間に社会的領域が生まれる。
【ガダマー】
デリダとの論争は面白そうだ。地平の融合はE・H・カーの歴史観みたいだ。これは、ちょっと耳に痛い。『現代は、科学的・道具的理性に切り詰められていて、理性不信や存在忘却に陥り、「世界の夜」が到来している。』
【ハーバーマス】
道具的理性でもってコミュニケーションを図ると、そこは支配=被支配に陥るだろう。言いたい放題(非理性を含む)のすり合わせ(理性が必要)が、ベストかな。
【ロールズ】
幸せの尺度が異なるように、正義の尺度も異なろう。だけど、構成員が納得する正義がなければ社会は不安定だ。 政治的自由、言論・集会の自由、思想および良心の自由等の「基本的自由の権利」は平等に分配されること(第一原理)。公正な機会均等を確保したうえで、最も不遇な人びとの暮らし向きの改善を図り、社会的・経済的な不平等を長征すること(第二原理)。
この出発点に到達できるのはいつのことやら。センの厚生経済学を思い出す。アレも同じ感慨をもった。とりあえず新自由主義は批判されなければなるまい。
【クリスティヴァ】
知らんかった。ル・セミオティック、コーラ、ル・サンボリック、ポリロゴス。なじみがないのでどうとも言えん。あ、「死への欲動」はタナトスだな。大阪さん。
(続)

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