ノルウェーへの道すがら、『国家論』(佐藤優著)を読了。様々な観点が提示され面白かった。
中でも気になったのは、彼はプロテスタント系クリスチャンとして、徹底的に外部(注入)論に拘っているところ。
プロテスタンティズムは、人間は自らを救うことが出来ない人間を徹底的に突き放す、地力での救済などありえないとするアンチ・ヒューマニズムの思想である。その観点からは、救済は人間内部からは起きないという、外部(注入)論が必然化する。
この感覚は、大乗仏教の一派である浄土真宗系の人間には良く分かる。日本では知悉仏性などと言い、内部に物性を生きとし生けるものは抱えているというが、我が衆派ではそのことに気づくには、仏陀の計らいがあってのことで、そのこと自身は自力では果たされず、まさに「外部」からの計らいなのだ。その点で、悟りも外部(注入)論なのだ。
ただ、全くの外部ならば、接触点はないわけで、救済も悟りもあったもんじゃない。この辺に、どうしようもない接触点に関する矛盾が発生する(苦笑)。信じる信じないの命がけの飛躍の必要性はこの難問とどう向き合うかにあるのだろう。
さて、外部(注入)論と言えば、我らが左翼世界にも。『なになす』のレーニンvsローザとか。「労働者の階級意識はインテリから齎される」(レーニン)。浄土真宗系の人間としてはこれは正しいと考える。だが、ローザら依拠する「労働者の解放は、労働者自体の事業である」というマル・エンの言葉には、直接的外部性は明示されておらず、それゆえに「自身」=内部性に徹底的に拘る。
まあ、マルクス(主義)は宗教だな。だが、それでいい。

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