『ノルウェイの森』(村上春樹著、講談社文庫)
セックスはコミュニケーション手段。死は生を構成する一部であり、すぐそばにある。
とまあ、アフォリズムでも書いておこうかと思ったが、しかし、どうしても、それじゃあ物足りない。直子が壊れていく所が泣けて泣けて仕方なかった。キズキと直子は、セックスしようとしても直子が濡れないほどの=性的幻想が多分抱けないほどの近い関係であった。キズキが自殺した理由は、読み終わっても分からない。終わらない日常への恐れか、左翼総敗北へ到る時代の閉塞への予兆か。背景には、その後時代のテーマとなった課題が感じられたのは、新人類という「醒め切った」後世の世代に小生が属するゆえか。まあ、小生の世代の大多数のように左翼なんぞに興味をハナから持っていなければ、感じられなかっただろうが。
んなことはともかく。直子が壊れたのは、下巻で書いてあるように、思春期に空気のようなキズキの喪失を解釈・咀嚼・乗り越えられなかったから、というのは、まあ、当たり前の話。この辺の機微の表現は、さすがに作家である。語られるべき中心を、言葉という「道具」によって語ろうとすればするほど、「道具」であるがゆえに真実から遠ざかる、よって、語られない、言葉は中心の周囲をグルグルするばかりで心を疲れさせ、傷つける。この作品で、一番読ませるところだと思う。
直子の自殺は、時間が固定してしまった者ゆえの悲劇か。主人公=ワタナベ君を、ワタナベ君としてではなく、やはりキズキ君のそばにいた影=残影として解釈してしまっていたのか。結局、直子には慰藉はなかったということか。「なぜ、ワタナベ君はあのとき私を抱いたの?」 抱いたことで、それがいかに素晴らしいセックスであったとしても、直子にとっては、それは素晴らしい慰藉にならなかったことは、レイコさんに話したとおり。
人間は、他者(それは人間に限らない)に幻想を抱いて生きている。その幻想を、幻想として実体化するほど貫徹できないとき、人はゾンビとして生きるか、死ぬしかない。これは、南海ホークスを喪失した人間にとっては分かる心理である。また、左翼に幻滅したものとしても。
小生の場合は、そうは言っても、エンジニアとして職業的に生きること、一介の軟式野球プレーヤーとして生きること、その他云々、まあ、気が多いというかいい加減というか、そういう奴だし、大抵の奴はそんなもの(無邪気を責めるのではない!)だから、幻想を他に移して生きていけるが、直子の場合は余りにも幻想を抱けない女性だった。近しいワタナベ君に対しても。
一方、ワタナベ君。直子なみに幻想を抱かない人間。だが、同時に、人の痛みが分かる人間。大抵の男なら、オスの欲望に支配されてしまうセックスのシーンにおける描写(相手の反応を注意深く探りながら、行為に及ぶところ)なんか、彼がどれだけ理性的で思いやりのある人間かが分かろう。だから、直子が心の中の裂け目・あるいは空洞を叫びとして表現したとき、彼は直子を抱くしかなかった。しかし、それは同時に、直子を絶望させるものだった。直子にとっての絶頂=充足は、ワタナベ君であっても齎すことは出来なかった。
レイコさんとワタナベ君のセックスは、ケジメだろう。真摯な慰藉行動として、レズ行為で直子を抱いていたレイコと、たった一度とは言え、深いコミュニケーション手段として直子を抱いたワタナベ君。お互いがお互いの中に直子を確かめる行為ではなかったか。
直子の悲劇は、小説の中では永沢先輩の恋人、ハツミさんの自殺で予感されている。これがなければ、直子の自殺は読者にとって受け入れがたいものだったろう。
そう言えば、緑について書いていないなあ。緑については、書きにくいんだよなあ。
緑がいなかったら、どうなっていたんだろう。直子はワタナベ君に幻想を移しきる踏ん切りがついたんだろうか。それにしても、思う。ワタナベ君は、キズキと直子という巨大すぎる喪失から、どのように恢復を果たしたのだろう。この小説においては、レイコの言葉に恢復を予兆させるものがあったが、それは余りにも世故に長けたオバサンの言葉であり(それはそれで妥当なのだが)、キズキや直子の同類であるワタナベ君の恢復には不十分な言葉だと思った。個人的には、恢復されてないやん! そんなことで緑とハメハメしてええんかい!(下品;しかし、チンポの視点というテリー伊藤の名言はこういう場合は排他的な本質なのだ)と思ったのだ。
まあ、色々と考えさせられた小説でした。さらっとした文体で、深いぞ、春樹!
あ、一番、小生に近い人間なのは、「突撃隊」であることは言うまでもない。それから、「おにぎりの具で女性の価値を判断するような左翼って、どうよ?」というのは、根源的な左翼批判であり、この小説の以前・以後、同様の批判はフェミニズムなどから繰り返されてきたことは歴史が示すとおり。左翼批判の小説としても、面白かった。

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