『憲法とは何か』(長谷部恭男著、岩波新書)
リベラリストの立場からの憲法論。リベラリストは究極のところで逃げるというイメージだが、著者は全体性を意識しているようで、何やら安心。
さて、憲法は、国柄を示すものであり、容易に変えてはならないものとされる。また、文章が変わっても、国柄そのものが変わらないとナンセンス。イギリスには憲法がない。それでも、イギリスについてはそれなりのイメージが出来ている。
容易に変えてはならないのは、その時々の政治勢力の利益などで変化していては、腰が定まらず、党派的利益を超越した国益を損なうからだ。そこで、複雑な手続きを通じて、議論が深まることを狙う。変更するときは、国民全体に相応の覚悟を要求するのだ。
さて、第一章で立憲主義の成立について述べられる。宗教紛争ってのがかつてあって、生き方や宗教は個人のこと、公的な場に持ち込んではならず――そうしないと、収拾つかない対立となる――、その公的な場を預かる権力ってのを規制するために憲法が出来た。生き方については我関せず、というのは人間の自然に反する。しかし、それをしないと、えらいこっちゃ、なのである。これがリベラルな憲法観である。根本は無茶なこと、という著者に敬意。
第二章はそういうリベラル憲法が、共産主義や各種ファシズムの憲法に対して、勝利した話から。憲法は国体を表現する。しかし、同時に、国体が本義でもある。憲法の文言が変わっただけで、憲法の内実が変わるわけではない。まず、ファシズム関連。カール・シュミットを俎上に。友−敵は敵を外部に措定。討議を通じた真の公益への到達は放棄。共産主義もこの「放棄」を共有し、国内を粛清の嵐などで均質化。三つの憲法体系は実際は軍事的、あるいは軍事のパワーゲームによってリベラル憲法の勝利に帰着した。偽善的立法過程に従って振る舞うこと。こう書く著者に敬意。まあ、共産圏はまだ少しは生き残っているが。東アジアに多いね。かの国などの性急な体制変革、我が国の改憲にかなり慎重。
第三章で見るべきは、まずは9条にも係わらず自衛隊を持つことの意味か。9条は「原理」であり、カントの言う統整的理念ということか。護憲派の反発を招く文章かも。それと、最後の民主主義に憲法がどうして要るのか、という話。「プレコミットメント」というキーワード。賢明な君主は鋳造権を放棄する。そうしないと、貨幣は信用を失うからだ。制約されることにより、強力で信頼に足る政治権力となるのだ。
第四章では、権力分立について。ドイツや日本のような「制約された議院内閣制」が結構機能的で良いらしい。例えば、大統領制では議会と大統領が違う党派ならば、閉塞する。同一ならば暴走しかねない。日独では、基本的に議会と首相は同一党派であるが、それらに憲法で制限が課せられている。首相公選制はその長所を破壊しかねない。また、どのシステムであっても、官僚の中立性を確保するのは容易ではなさそうだ。なお、この章はブルース・アッカーマン氏の議論を導きになされている。彼は二元的民主政を望ましいものとする。最後に引用。
アッカーマン氏は、国の根本原理を変革する政治過程を「憲法政治(constitutional politics)」と呼び、日常的な利害調整に関わる政治過程を「通常政治(normal politics)」と呼んで区別する。彼のいう二元的民主政とは、この二つの政治過程が区別される政治体制を指す。イギリスのような一元的民主政では、この二つを区別することが困難である。(p117)
第五章は改憲について。憲法は数多くの条文がある。セットで問うことのナンセンス。また、憲法典を変えても、血肉化するには物凄く時間がかかることもある。アメリカの人種差別問題。権利・義務という一次レベルの規範と慣行という二次レベルの規範。憲法は二次レベルに属する。これの文章化は、大変難しく、専門家集団に委ねざるを得ない。ただ、ここに大きな困難が伴う。
成文化された憲法のテキスト(つまり憲法典)が二次ルールたる「憲法」であるわけではない。テクストを素材に法律専門家集団が紡ぎだす慣行の集まりが「憲法」であって、それはテクストを改廃することでは、必ずしも意図されたようには変化しない。(p140)本質論と形式論の鬩ぎ合い、あるいはすり合わせ。
第六章は憲法改正の手続きについて。国体の変更についてじっくり考える時間を得、そしてその時々の政権の意向という党派的なものに従わないように、設計されている。また、コンドルセ侯爵の理論――アホが過半を占める場合、多数決に従うならアホな結論に近づく――によって、少数者権利が裁判所の判断に委ねられるべきことが書かれている。これが発議要件が2/3に加重されている理論に繋がる。また、改憲に関わる議論については、情報公開が必須で、討議の場が十分に保障されなければならない。一部改憲派のいかがわしい動きに警戒をしている。
終章は、憲法に規定された国家がなぜあるのか、あるいは国境はなぜあるのか。国境に決定的な根拠はない。それでも、ジョン・ロールズを引用して、その役割をまず示す。
ある資産について、特定の人間が所有者として責任をもって管理しない限り、資産の価値は次第に失われていく。(p171)適正な人口規模でもって統治することは、世界を保全するのに都合が良いということである。また、人権の観点からは、
特定の政府が特定の人々の権利を保障するよう役割分担をした方が、人権は全体として実効的に保障される。(p173) 人権を保護しない国家からは離脱する権利があるとも言える。他の政府はそのような人民を保護するべきである。さて、ホッブズ。国家への権力移譲は、単一国家の可能性を否定しないと小生は思う。だが、国家は他の国家が存在するからこそ、存在する。国家同士の敵対。友−敵理論で戦争状態は国家間のことに。パンとサーカスで「目くらまし」をし、資源の希少性を解決すれば、国家間の対立も消滅かもね。それが、本質論を排除したリベラリズムというものだ。しかし、シュミット解釈で有名なシュトラウスは「
すべてを投げうって成立する協調は、人間生活の意味を犠牲にした場合にのみ可能である。というのは、そうした協調は、人間が正しいものは何かという問いを立てることを放棄する場合にだけ可能だからである。」(p179)と言う。本物の思想は人殺しに行き着く、しかし、本物の思想を求めなければ人生は死ぬ。このアポリアを国家も抱えると小生は思う。なお、シュミットは、リベラリズムという中途半端な敵が真実の敵ではなく、その「調停者」の肩越しに真の敵を見据える。これは宿題だな。
最後の最後に、国境という境界から敷衍して。
どこかに引かざるをえないものの、どのように引くかについては確定的な根拠がないという事態は、境界線一般にあてはまる。公と私の境界線、保護されるべきプライバシーの境界線、戦闘員と非戦闘員の境界線(中略)いずれも、引かれるべき線がおのずから定まるわけではない。(中略)現在引かれている境界線へのこだわりは、無意識のうちに境界線の維持を自己目的化する傾向を生み出しがちである。しかし、境界線はそれ自体が目的ではない。国境や国籍が、それ自体、目的ではなかったことと同様である。
同じことは、憲法典にもあてはまる。憲法典を変えることが自己目的であってはならないように、現在の憲法典のテクストをただ護持することだけが自己目的であるはずはない。(p187)
前半のみに思うところを。中間項の柔らかさ、二次近似をいかに扱うか。モダンの延長としてのポスト・モダンは、実はそういう課題のことかも知れない。

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